キリストにある生

(10月14日の説教から)

牧師  原田 多恵子

フィリピの信徒への手紙1章12~26節

 今日は、神学校日、伝道献身者奨励日です。千葉支区報「しののめ」に今年度、支区内の教会に赴任された教師の証しが掲載されています。若い人から、定年後神学校に入って教師になった人など、特色ある経歴の方々です。神さまは、一人一人をそれぞれの場所から伝道者を召され、喜びをもって教会に遣わし、伝道者もまた喜びをもって教会に仕える者となりました。

 パウロは、この手紙を獄中から、フィリピの信徒たちに書き送りました。「わたしの身に起こったことが福音の前進に役立ったと知ってほしい」と言い、獄に囚われた使徒を見て、多くの者が「確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになった」ことを喜びます。その一方、パウロに苦しみを更に加えようと「不純な動機からキリストを告げ知らせている」者たちのいることも明らかにします。「だが、それがなんであろう。とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」と言うのです。苦難の中にも喜びが満ちているのです。

 このような喜びは、パウロが、「生きるにも死ぬにもわたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望して」いるからであります。「キリストにある生」とは、「生きることはキリストであり、死ぬことは利益」なのです。この二つの間で板挟み状態のパウロであり、またわたしたちですが、どちらにしても、キリストと共にあること、キリストの内に生き、内にキリストを宿すこと、そこにキリスト者は生きるのです。喜びをもってキリストと共に生き、喜びをもってキリストに仕えていきたいものです。

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