「言葉が通い合うとき」

(5月24日の説教から)

牧師 原田 史郎

使徒言行録2章1~11節     

ユダヤ教の過越しの祭りの50日後が、五旬節(ペンテコステ)に当たります。この日、祈っていた120人余りの人たちの上に、聖霊が降りました。この時、幾つかの異常現象が現れましたが、内容的には、二つのことが起こりました。

ひとつは、神の息である聖霊が人々の上に吹き込まれたということです。「霊」という言葉は、旧約聖書のヘブル語でも、新約聖書のギリシャ語でも「風」や「息」という意味があります。かつて、幼児保育をしていたころに、救命訓練が義務づけられて、日赤の指導で講習を受けたことがあります。意識を失い、呼吸を停止した人に口から直接、息を吹き込み、心臓マッサージを行います。こうしてその人が蘇生することが出来るのです。神の息である聖霊は、今、人々の上に降り、彼らに命と力を与えます。

もうひとつのことは、聖霊を受けた人々が「“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」ことです。そのとき、エルサレムには、デアスポラとよばれる、世界中に離散していたユダヤ人たちが集まっていました。彼らは「どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか」と驚き怪しみました。バベルの塔(創世記11章1~9節)以来、「言葉の混乱(バラル)」であった世界は、誤解や行き違いから、対立と争いを繰り返して来ました。しかし、聖霊は、そのような世界に、「偉大な神の業」を語る宣教によって、言葉の通じあう世界を生み出す希望を与えられたのです。

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