「重荷を負う者は来なさい」

(7月26日の説教から)

  牧師 原田多恵子

マタイによる福音書11章25~30節

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」 悔い改めない町を叱られた主(11章20~24)は、ここから一転して、わたしたちに優しく声を掛けられます。ここでの重荷の意味は、当時のユダヤ教が、人々に強いていた厳しい律法厳守に、人々が疲れを覚えていたことでした。律法学者やファリサイ派による煩瑣で細かい規定に、人々は重荷を感じ、疲れを覚えていたのです。

このような宗教的で厳格な掟は、わたしたちにはありませんが、だからといって、平安で自由であるというわけでもありません。人間である限り、わたしたちもまた、何かしらの重荷を負い、疲れを覚えているのです。心と魂の重荷があるとき、またそれは体の疲れや重荷になります。

そのようなわたしたちに、主は「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と招いてくださいます。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい」と言われます。神のみ子である方が、柔和と謙遜をもって人間の中に降られ、しかも僕になって仕えてくださったのです。

軛は、働く牛が2頭1組みになるために繋がれる木製の器具です。主は、重荷に喘ぎ、疲れているわたしたちの担えない軛を負って、共に歩んでくださいます。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」

招いてくださる主のもとに、今こそ、わたしたちの疲れと重荷をお委ねしましょう。

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