キリストの両手

 7月8日

 牧師  梁 在哲

マルコによる福音書 第8章22~26節

主イエスが弟子たちと共に湖を渡って再びベトサイダに戻って来られた途端、人々は一人の盲人を主イエスのもとに連れて来た。彼らはこのナザレのイエスと言う人の手に触れて頂ければ、自分たちが連れて来た盲人が直ちに癒されるのではないかと、素朴な願いを抱いて来たのである。そこで『イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて「何か見えるか」とお尋ねになった。』(23節)「罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼」を洗礼者ヨハネより受けられた主イエスは盲人を連れて来た人々と同じ目線にお立ちになられて彼らの素朴な願いにお答えになられた。以前、主イエスは耳が聞こえず、舌の回らない人をも唾をつけて耳と舌に触れられて癒してくださったが、周りの人々より連れられて来た盲人も群れから引き離し、村の外へ連れ出されて癒してくださった。

「何か見えるか」とお尋ねになる主イエスに盲人は「人が見えます。木のようですが歩いているのが分かります。」(24節)と答えた。そこで主イエスは、もう一度両手を盲人の目に当てられて盲人は「何でもはっきり見えるようになって」完全に癒されたのである。ところが、この一部始終を主イエスの側で目の当たりした弟子たちも、後にこの盲人と同じ経験をするようになる。彼らは主イエスが苦難を受けられて十字架で死なれるまで主イエスを正しく理解することが出来ず、復活なさった主イエスに出会った後に明確に理解してはっきり見えるようになったからである。

いつも主イエスは困窮に陥っている人々を憐れんでくださったが、しかし単なる奇跡のしるしをお示しになり、ただ病気だけを癒してくださる人として知られるのを願っておられなかった。だから主イエスははっきり目が見えるようになったこの人に「この村に入ってはいけないと言って、その人を家に帰された。」(26節)しばしば、「教会形成」と言う言葉を言われているが、それはキリストのお体なる教会を造り上げる意味合いである。それは私どもが主イエスをどういう意味で捉えているのかによって、またどういう主イエスを宣べ伝えようとしているのかによって決まって来るのである。盲人は、周りの人々の「思いやりの手」から主イエスの「御憐れみの両手」のほうに引き渡されるようになった。

主イエスの両手は、弟子たちの足を御自ら洗って下さる「謙遜の両手」であり、十字架の苦しみを受けられて十字架の上で私たちの罪のために釘で刺された「十字架の両手」であり、死人のうちよりよみがえられて、私たちが神の御前で正しい者になる、私たちの義のために執り成しの祈りをお捧げになる栄光に満ちる「ご復活の両手」である。私たちは、弟子たちのように弱くて頑なな心のゆえに見る目も、聞く耳をも持たない者であるが、主日礼拝ごとに、また聖書の学びと祈り会や家庭集会ごとに心の中で浮んで来る、まだ主イエス・キリストの良い知らせ‐福音‐を知らない方々を思い起こすのである。私たちは彼らを主イエスのもとに連れて来て「キリストの両手」に引き渡す、「思いやりの手」になれるように、そしてキリストの「十字架の両手」と、キリストの「ご復活の両手」が、はっきり見えるように聖霊の御助けを根気よく、絶えずに求め続けたいと願うのである。

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