主を一人きりにする時

9月30日

牧師 梁 在哲

マルコによる福音書14章43~52節

ゲッセマネは、以前はお祈りと憩いの場所であったが、一瞬にして裏切りと混乱、そして恐れが交錯する所に変わった。「12人の一人であるユダ」は友情と愛のしるしを裏切りの合図にしてしまい、主イエスを罪人の手に引き渡し、祭司長、律法学者、長老たちは夜中、人の気配のいない所で主イエスを捕えようと群衆を遣わして、ゲッセマネは「暗闇の業」に包まれる場所となったのである。主イエスが何の抵抗もお示しにならず、あまりにも簡単に捕らえられるのを見て、弟子たちは皆、恐怖に陥って主イエスを見捨てて逃げてしまった。その時は「主イエスを一人きりにする時」(ヨハネ16:32)であり、弟子たちの真の信仰が問われる「真実の瞬間」であった。その時は稲妻のように迫って来るもので、鶏の鳴き声がいきなり鬼のように聞こえ来てペトロと弟子たちが自分の醜さと弱さに気づく時でもあった。

「もう一人の若者」が自分の弱さと恥ずかしさを隠さずに伝えているが、彼はこの福音書の著者であるマルコと言われている。彼は自分の弱さと醜さを明らかにして福音書に自分の署名を残したのである(52節)。何故この若者は自分の恥ずかしさを、そして弟子たちの弱さと醜さを隠さずに福音として伝えているのであろうか。それは主イエスを十字架に追いやった「暗闇の業」と弟子たちと自分自身の弱さと醜さが「主のご復活」の光によって覆され、また明らかにされたことを伝えないではいられなかったからである。主イエスのご復活は「暗闇の業」と罪、そして死に打ち勝つキリストのみ力を示し、弟子たちとこの若者に絶えずに勇気をもたらし続ける父なる「神の御業」であるからである。また「暗闇の業」と罪、そして死を打ち破る「主のご復活の力」は私たちにとって主日礼拝において絶えず勇気と新しい命をもたらし続ける「神の御業」でもある。それゆえ、私たちは聖餐式ごとに「ご復活の力を知る」ようにと、繰り返して感謝のお祈りを捧げているのである。

弟子たちとこの若者のように、私たちにも「主イエスを一人きりにする時」が訪れて来ると思われるが、その時は自分たちは常に安全だと思う時、稲妻のように迫って来て私たち一人一人の信仰は問われ、また弱さと醜さが明らかにされる「真実の瞬間」の時でもある。私たちは人知を遥かに超えて成し遂げて下さる「神の御業」により頼って主イエスの福音を宣べ伝えつつ、「主のご復活の力」によって「新しい命と勇気」を与えられて弱さと醜さに立ち向かい、悲しみや苦しみを乗り越えることが出来るように切に願うのである。今も主イエスは私たちに言われる。

「あなたがたは世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」(ヨハネ1633)。

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