主に知られている者

10月14日

牧師 梁 在哲

マルコによる福音書14章66~72節

主イエスは大祭司の屋敷の中庭で尋問を受けられたが、ペトロは下の中庭で自分を問責する人々にいくら自分のなまりを隠そうとしてもそれは隠せないものであって大祭司の屋敷の中庭に自分が現れた理由をろくに説明出来ないよそ者であった。ペトロは最初、何となく主イエスと一緒にいた事実を否認し、次は主イエスの弟子たちの中の一人であることを否認し、最後には主イエスを知っている事実さえ、激しく呪いながら誓いを立てるほどまで主イエスを知らないと言ってしまった。

『するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣き出した』(72節)。我を失っていたペトロは鶏の鳴き声を聞いて我に返って正気を取り戻したのである。ペトロは言い張っていた自分の言葉と振る舞いが、空しく崩れたことを思い出して改めて自分の醜さと偽りを痛感していきなり泣き出したわけである。主イエスは、ご自分に従うペトロと弟子たちの決意や覚悟が如何に脆くて崩れやすいものであるかをよくご存じで、殊にいきなり泣き崩れるほど追い込まれていた等身大のペトロのことを先立って知っておられた。「主よ、あなたは私を究め私を知っておられる」(詩編139:1)。

ある大先輩の牧師は、主に知られているペトロのように我々も主に知られていることを「神の経験」という言葉でこう解き明かしをされた。「神の経験とは我々人間が神を経験するということだけではなく神が人間を経験しておられることである。」このように主イエスは我々が主イエスを経験させていただく前に我々を経験しておられるのである。ペトロと弟子たちが、主イエスに知られていたように我々も、産声をあげて、ゆりかごからお墓までの生涯において信仰と不信仰、従順と不従順、良い時と悪い時、喜びと悲しみ、成功と失敗、希望と絶望、健康と病い、あらゆる悩みと不安と憂いの中において既に主イエスに知られている者である。

ペトロは、「主イエスを知らないと言いながら口にしていた呪いを自分は受けてもよい」、と誓いを立てるほどまで言い張っていたが、主イエスはその呪いを受けなければならないペトロと弟子たち、また私たちの代わりに御自ら十字架の道へ進まれてその呪いを受けられて、背負ってくださったのである。「キリストは私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出して下さいました」(ガラテヤ3:13)。我々は、私たちの代わりにその呪いの場‐十字架‐にお立ちになられた主エスのみ姿を、そして復活なさって失敗だらけの等身大の私たちをお赦しになり、回復してくださる主イエスのみ姿を仰ぎつつ、主に知られている者として、その自覚が益々盛んになって、あらゆる試練を乗り越えて、この地上の旅路を歩み続けたいと切に願うのである。

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