思いがけないその日

11月29日の説教

梁在哲牧師

 

イザヤ書2章1~5節     マタイによる福音書24章36~44節

旧約聖書のダニエル書や新約のヨハネの黙示録は、世界と人間の歴史の終りに言及し、未来の特定の局面を言明する黙示文学と称する。ところが、聖書は、わたしたちに神の計画表に記された未来の出来事について列車のダイヤのような詳細な時刻表を提供してくれない。しかしながら、その未来について聖書の証言に明らかに含まれている出来事は、主が再び来られることである。それゆえ、わたしたちは、主日礼拝ごとに使徒信条をもって「かしこより来りて」と、告白し続ける。イエスは、人の子が再び来られる終りの日、その時は、ノアの洪水のように突然来るのに(マタイ24:36~37節)、人々は、最後の裁きの瞬間まで世の楽しみや日々の営みに没頭したあげく、ある者は救われ、ある者は、滅ぼされると戒められた(38~40節)。

イエスは、人の子は思いがけない時に来るから、いつも「目を覚まして用意していなさい」と言われた(42~44節)。宗教改革者ルターも「キリストは、ご自分の再臨を隠され、我々が緊張の中で、その日、その時を用意するように願っておられた」と述べた。キリストは、ご自身再び来られるその時まで、御国の福音が宣べ伝えられるように教会に委ねられた。それゆえ、教会の公同の礼拝、福音伝道、聖礼典、愛の業の全ては、主が再び来られるのを待ち望むその希望の中で営まれる(日本基督教団信仰告白‐手引き-問75番)。わたしたちは、生涯をキリストに対する自らの召命と奉仕に用い、そのようにして今の時を生き、主に仕えている。それと同時に、わたしたちは、主が再び来られるのを待ち望む者として、目を覚まして「主よ、来てください(マラナ・タ)」(コリントⅠ16:22)」と祈り続けたいと願う。

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