イエスにつまずかない者

12月6日の説教

梁在哲牧師

 

イザヤ書59章12~20節     マタイによる福音書13章53~58節

イエスは、故郷ナザレにお帰りになり(マタイ13:53~54節)、いつもの通り、会堂で教えておられた。その教えと奇跡のしるしを初めて見聞きした人々の驚きは、気を失うほどの強烈なものであった。イエスの両親と兄弟姉妹たちをよく知っていた幼なじみの人々は、驚きを隠せなかった(55~56節)。「このように、人々はイエスにつまずいた」(57節)。「つまずき」の語源は、幅広いスペクトルを持ち、先ず、不満で気に食わない、憤りや怒り、信じない、押し退け、迫害、罪を犯すなど、多様な意味を示している。人々のつまずきは、最初イエスに何か不満で気に入らないことから始まった。何故なら、幼なじみのイエスと目の前のイエスとの隔たりがあまりにも大き過ぎたからである。それゆえ、彼らは不満で気に食わなくなり、ある種の憤りを感じ、信じなくなり(58節)、イエスを排斥した(57節)。

使徒パウロは、シオンに置かれたつまずきの石(イザヤ8:14)、イエスにイスラエルはつまずき(ローマ9:32~33)、十字架の言葉は、つまずかせるものだと証した(コリントⅠ1:23)。彼らは、イエスを排斥し、迫害し続け、十字架の刑罰で殺し、罪を犯してしまった。しかし、「貧しい者は主の良い知らせを告げ知らされている」(マタイ11:5)。彼らは福音に答え、苦しみの中でも罪を犯さず、イエスを喜んで受け入れ、つまずかなかった。それゆえ、イエスは、洗礼者ヨハネに「わたしにつまずかない人は幸いである」と言われた(6節)。イエスは信仰から離れた奇跡のしるしは、空しいものだから故郷であまり奇跡のしるしをなさらなかった(58節)。父なる神は、御子イエスに聖霊を注ぎ、世の貧しい人に良い知らせを伝えさせるためお遣わしになった(イザヤ61:1)。アドベントの時、わたしたちがつまずかないように執り成しの祈りを捧げておられる主を仰ぎつつ、クリスマスを迎えたいと願う。

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