全ての人を照らすまことの光

12月20日の説教

梁在哲牧師

 

イザヤ書9章1~6節    ヨハネによる福音書1章1~14節

ヨハネによる福音書は、天地創造の神の御業にお働きになった「言」が救いのために世に来られたと、褒めたたえる歌声から始まっている(ヨハネ1:1~5節)。「言」は、その独り子をお与えになったほど世を愛してくださった父なる神の愛であり、御心である。それゆえに、洗礼者ヨハネは「言」は、「全ての人を照らすまことの光」として世に来られたと証した(9節)。その光は、世のイルミネーションのような人間が造りだしたものではなく、父なる神の愛を悟るように、全ての人の生きる歩みを照らしてくださるからである。しかし、世は言を受け入れも、認めもせず、知らなかった(10~11節)。世は、無知や無関心であるだけでなく、まことの光に照らされるのを激しく拒み、その存在を抹殺しようとした。ところが、世に激しく拒まれ、光は闇の中に消えたかのようであるが、まことの光を受け入れた者たち、その名を信じる人々は、神の力によって新しく創造され、神の子となる(12~13節)。「言」は、神に背き、逆らう悲惨な罪にとらわれている「肉」となられ、そのような人間の間に宿られた。「言」は肉となられ、ご自身を低くし、人間の罪をご自分のものとして担われた。主は御自ら、その十字架を背負い、罪と死の力を打ち破られたゆえに、わたしたちは、主の復活の栄光を仰ぐことを許される(14節)。

アドベントからクリスマスまで、毎週一本ずつろうそくをともすことは、雰囲気を盛り上げることとか、美しく飾るためではなく、初代教会の歴史に基づいたものである。人の目を避けて夜、ひっそり集まった人々の真ん中には、灯りがともされ、人々はその灯りに照らされ、「まことの光」なるキリストが自分たちの所まで来てくださったことを信じ、慰めを受け、勇気づけられた。そして、その灯りを心の中に灯しつつ、それぞれの厳しい生きる場へと帰って行った。今日の世界は、未曽有のコロナ禍で憎しみや争い、また様々な差別と迫害は絶えず、そのような闇の力にわたしたちは、無力な存在ではないだろうか。けれども、人間の罪のゆえに闇に包まれているかのように見えるこの世界に主は、闇の力に打ち勝たれる「まことの光」として来てくださり、闇の力におののいている人々を照らしてくださる。このクリスマスの時、「全ての人を照らしてくださるまことの光」として世に来てくださったイエス・キリストが再び来られるのを待ち望みつつ、それぞれの生きる場に臨みたいと願う。

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