聖徒の交わり

7月18日の説教

梁在哲牧師

ヨハネの手紙一1章3節   ペトロの手紙一4章10節

父なる神は、人間との交わりを願っておられたゆえに、ご自分にかたどって人間を創造された(創世記2:7)。しかし、アダムとエバの罪のゆえに、その交わりは、途絶えてしまい、人間同士の交わりをも断絶された。ところが、使徒ヨハネは、福音伝道をするのは、相手が自分たちの交わりを持つようになるためであり、その交わりは、「御父と御子との交わり」だと証した(ヨハネの手紙Ⅰ1:3)。果たして、罪のゆえに絶望に陥っている人間にそのような交わりができるだろうか。しかし、御父は、その独り子をお与えになる程に、人を愛してくださり、御子は、十字架の死に至るまで御父に従順でおられたゆえに、断たれた神との交わりは、回復させられ、人間同士の交わりをも回復させられた。使徒パウロは、御父は、御子との交わりの中にわたしたちをお呼びになり(コリントⅠ1:9)、この交わりこそ、御子の血潮のゆえに罪が赦された結果だと証した(エフェソ1:7)。イエスご自身、正しい人を招くためではなく、罪人を招くために世に来られたと言われ、御自ら彼らの友となられた(マタイ9:12~13)。それゆえ、不完全に思われる地上の目に見える教会は、たとえ、罪人の交わりとして世の交わりと少しも変わらないように見えても、しかもなお、それは主の恵みにあずかる「聖徒の交わり」である、と信じることが許される。

そして、「聖徒の交わり」は、目に見える形で具体化され、わたしたちは、「聖餐」にあずかることを許される。それは、ただ人間同士の交際だけを重視した訳ではなく、洗礼を受け、主に結ばれた者たちの間に(ヨハネ15:5)、生まれる「相互の交わり」である(使徒2:42)。使徒ペトロは、神より授けられたそれぞれの賜物を生かし、「善い管理者」として互いに仕えるように勧めている(ペトロの手紙Ⅰ4:10)。それゆえ、どの人も自分に与えられた聖霊の賜物を人の救いと慰めのために、また助けを求める者のために用いる責任がある。それと同時に、キリストに対しても、兄弟姉妹に対しても、必要な奉仕をすることができるし、これこそ、「聖徒の交わり」である。(コリントⅡ8:4)。わたしたちは皆、「公同の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝え、バプテスマと聖餐との聖礼典を行い、愛の業に励みながら、主が再び来られるのを待ち望む」(日本基督教団信仰告白)と、告白された教会の業に共に参与することにおいて、キリストの恵みを共に喜び、味わうことが許されている(ヨハネの手紙Ⅰ1:4)。これこそ、「聖徒の交わり」である。わたしたちは、福音伝道と「聖霊との交わり」(コリントⅡ13:13)を通して、「御父と御子との交わり」と共に「聖徒の交わり」にあずかり、主にある喜びに満ち溢れるよう願う。

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