罪人を招くキリスト

7月25日の説教

梁在哲牧師

 

ホセア書6章1~6節    マタイによる福音書9章9~13節

イエスは、ペトロとアンデレ兄弟、またゼべタイの子ヤコブとヨハネ兄弟のような漁師たちに引く続き、徴税人のマタイをお招きになった。イエスが世の無学の者や軽蔑される者をお選びになったのは、知惠のある者、能力のある者、家柄のよい者、力のある者たちに恥をかかせるためであった(コリントⅠ1:26~28)。ある日、カファルナウムの收税所に座っていた徴税人マタイは、イエスよりいきなり「わたしに従いなさい」と命じられたまま、安定した生活を捨てて、立ち上がってイエスに従った(マタイ9:9)。彼は、以前の生活に戻ることのできない道に足を踏み出し、悔い改めの証しとしてイエスと自分の仲間たちを大勢を招き、彼らはイエスや弟子たちと同席していた(10節)。それと同時にその場は、古い仲間たちに別れを告げる所でもあった。当時、徴税人と娼婦は、第7戒と第8戒を犯した罪人と見做され、殊に徴税人は、罪人の代名詞となっていた。ファリサイ派の人々は、これを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緖に食事をするのか」と非難した(11節)。彼らは、イエスの面前で言える勇気がないか、或いは、仲たがいさせるために、わざと弟子たちにずる賢く言ったかも知れない。

神の御前で正しい者は、一人もいないのに、彼らは、自らを正しいと思い込んでいた(ローマ3:9~10)。それゆえ、イエスは、「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい(ホセア6:6)。『わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである』」と言われた(13節)。預言者ホセアが、愛に欠けていた律法主義者たちに警告したように、イエスは、ファリサイ派の人々に警告した。御自ら、律法を超え、徴税人や罪人と一緒におられるのは、憐れみを願われるご自分の御旨であるからであった。イエスは、公の生涯において、「自分が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われ、御自ら、徴税人と罪人の友となられた。それゆえ、主イエスより招かれた者は、皆兄弟姉妹として「聖なる交じり」にあずかることを許される。主イエスは、人々から罪人と呼ばれ、神との交わりが途絶えられていたマタイに、「「わたしに従いなさい」と命じられた。マタイは、立ち上がってイエスに従い、自分が見、また聞いたことを伝え(ヨハネⅠ1:3)、別れを告げるために仲間たちを招いた。わたしたちは、自分が見聞した福音と聖霊の御助けを通して、御父と御子と共に聖徒の交わりに周りの人々を招き続けたいと願う。

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