深く憐れまれるイエス

8月1日の説教

梁在哲牧師

 

ヨナ書3章1~5節    マタイによる福音書9章35~38節

イエスは、山上の説教に引き続き、宣教について語りつつ、弟子たちに「働き手を送ってくださるように祈りなさい」と、促された(マタイ9:35~38)。ガリラヤ伝道をまとめ、振り返る上で(4:23~24)、大勢の働き人が求められるからであった。イエスのお働きは、「町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされる」ことであった(9:35)。イエスの癒しの奇跡は、その教えと宣べ伝えが真実であることを、またイエスこそ、神より遣わされたお方であることを証しするしるしであった。ところが、イエスは、押し寄せて来る大勢の群衆をご覧になり、深く憐れまれた。彼らの様子が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているからであった(36節)。イエスは、ファリサイ派の人々が、民衆を神に導けなくなったために彼らは、飼い主のいないまま、見捨てられたと言われた。預言者エゼキエルは、イスラエルを羊飼いのいない羊に例え(エゼキエル34:5~6)、モーセもヨシュアが次の指導者として選ばれる際、神に、「飼う者のいない羊の群れのようにしないでください」と願った(民数記27:17)。

旧約において「憐れみ」は、同じ胎内から生まれた者への感情、すなわち、胎内から争っていたエサウとヤコブ兄弟への母リベカの感情を表している。イエスご自身、徴税人と罪人と一緒に食事をすることを非難するファリサイ派の人々に、「神が求めるのは憐れみであって、いけにえではない」と言われた(9:13)。使徒パウロも、救いは自分の力ではなく、神の憐れみと恵みによって与えられる賜物だと証し(エフェソ2:7~8)、神の憐れみにあずかる者は、その憐れみを人々に惜しまずに施すように勧めた(ローマ12:8)。神の憐れみにあずかる者は、その憐れみを惜しまず人々に施し、福音の種を撒き、その実を収めねばならない。それゆえイエスは、「收穫は多いが、働き手が少ない。だから、收穫のために働き手を送ってくださるように、收穫の主に願いなさい」と、弟子たちに言われた(37~38節)。御子の十字架とご復活を通して成し遂げられた「父なる神の義」の実は、平和を実現する人たちによって平和の内に撒かれる福音の種によって収穫される(ヤコブ3:17)。わたしたちは、平和を実現する者として、「深く憐れまれるイエス」の御心とお祈りをもって人々に福音の種を撒き、義の実を収穫する者でありたいと願う。

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