聖霊の賜物

6月5日の説教

梁在哲牧師

 

ヨシュア記1章1~9節       使徒言行録2章1~11節

復活の出来事から数えて50日目に、散らされていた弟子たちは、再び一つになって集まって祈っていた。その時、彼らの上に聖霊が降り注いだ。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに他の国々の言葉で話し出した(使徒2:1~4)。その国々の言葉は以前、主が言われた「新しい言葉」に他ならない。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかった弟子たちに主は、彼らの不信仰と頑なな心をお咎めになり、信じる者には、「新しい言葉を語る」しるしが伴うと、言われたからである(マルコ16:14~18)。弟子たちは聖霊に満たされ、「新しい言葉」を語り始め、福音は、国々の言葉で地の果てに至るまで伝えられた。そのように聖霊降臨の出来事は、「一同が一つになって集まって熱心に祈る」ところだけに、また、「イエス・キリストを自分の救い主としてと告白できる信仰の共同体」にのみ生じて起こる。

神は、永遠の昔からイスラエルの歴史と主イエスの生涯、そして礼拝する教会の証の中に父・子・聖霊なる三位一体の神としてご自身を現わされた。そして聖霊なる神は、疑いや迷いの中にいるわたしたちの目と心を開いてくださり、信仰の賜物を与えてくださる。それゆえ、イエス・キリストこそ、わたしたちの救い主であることが分かるようになる。イスラエルの民は、豊かな収穫を感謝しつつ、神から律法を授けられ、契約の民となったことを記念し、五旬祭を守り続けて来た。弟子たちも五旬祭の時、聖霊に満たされ、豊かな信仰の賜物を与えられ、主の十字架の血潮による契約の民として新しいイスラエルとなった。その日を境として弟子たちは、主イエスを通して行われた「神の偉大な業」をそれぞれの国と地域の言葉で大胆に語り始めた(使徒2:11)。わたしたちも聖霊の賜物として信仰を与えられ、折を得ても得なくても新しい言葉、主の福音を周りの人々に語り続けたいと願う。

前回 目次へ 次回