パン種に注意せよ

7月17日の説教

梁在哲牧師

 

エレミヤ書23章23~32節  ガラテヤの信徒への手紙5章2~11節

パウロがガラテヤ地方を離れた後、まもなく律法主義者たちは、「イエス・キリストを信じても律法に従って割礼を受けなければ救われない」と、人々を誘惑した。彼らはパウロの使徒権を否定し、十字架は躓かせるものだと福音を歪めた。ガラテヤ諸教会の人々は、パウロから「信仰によってのみ救われる」真理を聞いてその真理を素直に信じて来た。しかし、律法主義者たちは彼らの「信仰の走りを邪魔して、真理に従わないようにさせた」(ガラテヤ5:7)。パウロは、その危機的な状況の中で真っ先に、「もし、割礼を受け、律法によって義とされようとするなら、あなたがたは誰であろうとキリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失う」と、厳しく警告した(4節)。そして、律法主義者たちに宣戦布告をする前にキリストから人々を切り離す割礼への誘惑は、わずかなパン種のようなものであると指摘した(9節)。パン種は、目に見えないほど小さい。しかし、いつの間にか入り込み、真理に従わないように働き続けるゆえにそもそも、神に捧げるべきではないものであった(レビ2:11)。

主イエスも「パン種によく気をつけなさい」と戒められた(マルコ8:15)。しかし、それは、単なるファリサイ派の人々の下心への注意ではなく、人々の心の中に入り込んで来て、気づかない内に醸し出されているパン種の力への警戒である。パン種が静かに広がるように律法主義者たちの勢力も絶えず膨らみ、人々の信仰を転覆しようとするため、それは直ちに取り除けねばならない。それゆえ、パウロは、「あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい」と、律法主義者たちに宣戦布告をした(12節)。パン種のような力は、まことの葡萄の木でおられ、善い羊飼いでおられるキリストから絶えず、わたしたちを切り離しようとしている。その意味においてキリストの福音に生きる自由は、何でもありの自由ではなくて、まことの葡萄の木にしっかりつながり、善い羊飼いに導かれ、生かされる自由でなければならない。エレミヤ預言者は、パン種のような偽りの預言者は、耳に心地よい彼らの言葉の中にも入り込んでいると、告げた(エレミヤ23:25)。イエス・キリストの福音に生きるわたしたちは、自分の思いのままに生きるのではなく、聖霊の御助けによってかすかに聞こえて来る父なる神のお声に耳を傾け続けたいと願う。

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