神による完全な武器

7月31日の説教

梁在哲牧師

 

サムエル記上17章38~50節

コリントの信徒への手紙二6章1~10節

使徒パウロは、「和解の福音」を宣べ伝える「神の協力者」として神からいただいた惠みを無馱にしてはいけない、と勧めている(コリントⅡ6:1)。今こそ、預言者イザヤが告げたように(イザヤ49:8)、父なる神が御子イエスを通して「和解の恵み」を施される「恵みの時」であり、「救いの日」であるからである(2節)。その恵みとは、父なる神が御子イエスを通してわたしたちをご自分と和解させ、わたしたちに「和解の言葉」を委ねられ、「ご自分の義」を与えられた「和解の恵み」に他ならない(コリントⅡ5:18~21)。その恵みとは、「飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びである」(ローマ14:17)。その恵みを無駄にしないためパウロは、自ら苦難と試練を受け入れ、大いなる忍耐をもって乗り越えた体験に基づいて証し、「和解の使徒」として務めを果たした(コリントⅡ6:4~5)。そして外からの苦難と試練に対して内なる美徳をもって生きている、と証した(6~7a)。

また、パウロは、「和解の使徒」としてキリストに仕えていく信仰の道には、様々な苦難と迫害があり、悪の諸霊との戦いがあるゆえに、「左右の手に義の武器を持ち、栄辱と好悪に左右されず」、信仰の戦いに臨むように勧めている(7b~8a)。ところが、信仰の戦いは、キリストご自分の戦いであるゆえに、「武器で戦う」とは言わず、「武器を持ち」、と勧めている。パウロにとって左右の手に持つ義の武器は、「キリストの義」に他ならない。何故なら、「和解の福音」には、信じる者全てに救いをもたらす「神の力」であり、御子イエスを通して神の義が啓示されているからである(ローマ1:16~17)。信じる全ての者には、律法から生じる自分の義ではなく、主イエスを信じる信仰によってのみ生じる「キリストの義」が与えられるからである(フィリピ3:9)。野原で羊の群れを守るため、日常茶飯事のように野獣と戦っていたダビデにとって巨人ゴリアトとの戦いは、いきなり遭われたものではなかった。日々の戦いの中で常に主なる神が打ち勝ってくださることを知っていたダビデは、サウル王から渡された武具を「慣れていない、日常のことではない」と、言って退けた(サムエル記上17:39)。わたしたちは、自分の義を捨て去り、「神による完全な武器」、「キリストの義」を左右の手に持ち、祈りをもって日々の信仰の戦いに臨みたいと願う。

前回 目次へ 次回