キリストの体

8月7日の説教

梁在哲牧師

 

民数記11章24~29節 コリントの信徒への手紙一12章14~26節

使徒パウロがコリント教会を離れた後、教会の中で色々な分派が乱立し、互いに争いが絶えなかった。彼らは、「自分は他の部分とは違う」(コリントⅠ12:15~16)、また「お前は要らない」と、言い争った(21~22節)。そこには、排除の理屈しか見えず、互いの違いは、批判の的となり、「キリストの体なる教会」の喜びは、見当たらなかった。そこで、パウロは、洗礼によってキリストに結ばれ、一つの聖霊を受け、キリストの栄光の体の部分となることを証した上で(12~13節)、改めてその真理を「体とその部分」を例えて「キリストの体なる教会」の神秘を明らかにした(14節)。そして、体と多くの部分との調和と助け合いによって命が保たれるように、神はご自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれた、と伝えた(18節)。それゆえ、それぞれの違いとは、「キリストの体なる教会」を輝かせる「部分」を担っているのである(19節)。

聖霊の賜物の源でおられる父なる神がなさったように、聖霊をも望むままにそれを一人一人に分け与えてくださる(11節)。モーセの時代からイスラエルは、霊を分け与えられた民として共同体を形成して来た(民数記11:25)。霊によって治められる民としてその恵みを重んじて来たのは、神に向かう民として共同体を造りあげるためであった。彼らに霊が分け与えられたのは、自分を大きくするためではなく、神を褒め称えるためであった。それゆえ、「キリストの体なる教会」をもへりくだって仕える共同体とならねばならない。そのような教会において弱い立場の者の内にまで働くキリストの栄光が現われる。何故なら、見劣りの部分は見守られ、引き立たせられて、分裂が起らず、各部分が互いに配慮し合うようになるからである(22~25節)。今も父なる神は、ご自分の望みのままに、一人一人に聖霊の賜物を分け与えてくださり、「キリストの体なる教会」を輝かせるように願っておられる。わたしたちは、聖霊の賜物を分け与えてくださる父なる神を褒め称え、「キリストの体なる教会」を造り上げる務めに励んで参りたいと願う。

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