主に従う道

8月14日の説教

梁在哲牧師

 

申命記1012111節  ヘブライ人への手紙12313

 ヘブライ人への手紙の著者は、「主に従う信仰の道」には、必ず困難と試練が伴うことをよく知っていたゆえに、当時ローマ在主のユダヤ人キリスト者宛にこの手紙を送った。彼らユダヤ人第2世代のキリスト者たちは、信仰の確信を持たないまま、迫害の困難に耐え切れず、信仰の意味さえ失っていたからである。著者は、彼らが気力を失い、疲れ果ててしまわないように主イエスの苦難と忍耐をよく考えるように勧めた。「信仰の創始者」であり、「完成者」である主イエスこそ、ご自分に対する罪人たちの侮辱的な犯行を黙々と忍耐されたからである(ヘブライ12:)。そして、試練は、主から受ける鍛錬として受け止めつつ、父親の愛の懲らしめのような苦難を甘んじて受けて忍耐するように勧め続けた(4~13)。父なる神は、わたしたちがこの世と区別された者として永遠の有益を得られるように願っておられるからである(1011)

しかし、「肉の父」の懲らしめは、時には、感情に偏ってしまい、自分の不完全な思いのままに鍛えるだけである。主なる神は、イスラエルの民に「ご自分の声に従い、戒めと掟を守る」ように願っておられた。それは、イスラエルの民が「幸いを得る」ためであった(申命記10:13)。それゆえ、イスラエルの民は、頑なな心を捨て去り、唯一の神のみを愛し、隣人を愛するように求められた(申命記10:1619)。父なる神は、わたしたちの「幸い」と「永遠の有益」をご自分のもの以上に願っておられる。それゆえ、著者は、預言者イザヤが、敵のためにおののいている民に告げたように(イザヤ35:3)、勇気を出して健やかに自分の足でまっすぐに前進するように勧めている(ヘブライ12:1213)。わたしたちも、「主に従う道」に伴う苦難を父なる神の愛の贈り物として受け入れ、十字架の死に至るまで従順を学ばれた御子イエス・キリストに倣いつつ(ヘブライ5:)、自分を捨てて新しく生きる者に開かれている「主に従う道」を自分の足でまっすぐに進みたいと願う。

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