新しい人間

8月28日の説教

梁在哲牧師

 

ミカ書6章1~8節        エフェソの信徒への手紙4章17~24節

使徒パウロは、三度目の伝道旅行を終え、貧しいエルサレム教会のために異邦人の教会から募った献金を携えてエルサレムを訪ねた。ところが、以前からパウロを憎んでいたユダヤ人たちに訴えられ、2年間カイザリアの牢屋に投獄された。そこでパウロは、ローマ皇帝に上訴し、ローマの牢屋に護送され、再び2年間投獄された際、そこで獄中書簡と呼ばれるエフェソ、フィリピ、コロサイ、フィレモン書を書いた。殊に、彼は、エフェソの信徒への手紙を通して、「教会の本質」と「キリストにあって新しく生きる」ことを証した。両者は、コインの両面のように離れられない事柄であり、教会を造りあげて行くためには、キリストの十字架によって砕かれ、必ず「新しく生きる」ことが求められるからであった。それゆえ、彼は、自分の思いによるものではなく、主にあって証しつつ、「古い人間を脱ぎ捨てて、新しい人を身に着けなさい」、と厳粛に宣言した。古い人間は、愚かな考えに従って歩むゆえに頑なな心と無知のまま、神の命から遠く離れ、恥を知らず、放縦に流れる生活をし、ふしだらな行いにふけってとどまるところを知らない(エフェソ4:17~19)。

主イエスは、私たちの罪のためにご自分を十字架の死に渡された。しかし、古い人間は、放縦に流れる生活をし、自分の身を罪に渡す。パウロはそのような古い人間を脱ぎ捨てて、新しい人を身に着けるよう勧めている。その新しく生きる道を歩む者は、キリストと共に十字架につけられ、古い人間を脱ぎ捨てて、多くの苦しみによって従順を学ばれたキリストについて聞き、結ばれ、教えられる(20~21節)。そして聖霊の働きによって心の底から新たにされ、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、再び神の栄光の姿にあずかることを許される(22~24節)。預言者ミカは、「主なる神と共に歩まず、愚かな考えに従って歩む」荒れ廃れていたエルサレムの古い人間の姿を嘆き、厳しく戒めた(ミカ6:8)。しかし、弱い私たちにとって自分の力や努力で古い人間を脱ぎ捨てて、新しい人を身に着けることは、到底、できないことである。ただ御子イエス・キリストの恵みと憐れみによって注がれる父なる神の愛と聖霊の働きによってのみ、古い人間を脱ぎ捨てて、新しい人を身に着けることを許される。私たちは、聖霊の御助けを求めつつ、御子イエス・キリストの従順に倣い、へりくだって父なる神と共に歩み続けたい。。

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