主の来臨の希望

11月27日の説教

梁在哲牧師

 

エレミヤ書33章14~16節   ルカによる福音書21章25~33節

本日からアドベントに入り、クランツに最初のロウソクの火が灯され、教会は救い主の来臨と共に主が再び来られるのを待ち望みつつ、悔い改めの祈りを捧げる。預言者エレミヤは、バビロンの捕囚となっていたイスラエルの民が希望を見出すように祈り、公平と正義をもたらす「救い主、メシアの来臨」を預言した(エレミヤ33:14~16)。主イエスは、過越祭の食事を準備させる前に、神殿の境内でご自身が再び来られる前に現われる様々なしるしを予告され、終りの日にどのように備え、待ち望むべきかを教えられた(ルカ21:25~28)。主は、そのしるしの異変を見て慄き、恐れて身を屈め、頭を下げることなく、「身を起して頭を上げなさい」と、命じられた。主が再び来られる時、わたしたちの肉の体も新しく変えられ、罪と死の奴隷から完全に解放されるからである。それから、たとえ話を通して、しるしを見たら、神の国が近づいていると悟りなさいと、命じられた。

しかし、全てのしるしが起こる時にも、天地万物を創造されたご自分の御言葉は、決して滅びないと、言われた(29~33節)。そして、起ころうとしている全てのしるしから逃れて、ご自分の前に立つことができるように、「いつも目を覚まして祈りなさい」と、命じられた(36節)。主は、終りの日に備えて「身を起して頭を上げ、いつも目を覚まして祈りなさい」と、「終活の言葉」を命じられた。このアドベントの時、長引くコロナ禍のただ中に、またウクライナ戦争による憎しみや恐怖、不安が渦巻く現実の前に、平和、正義、公平という言葉は、散々に破られ、空しく響いているのではなかろうか。しかし、聖書の御言葉は、こういう時こそ、全てにおいて耐え忍びつつ、心を固く保つように勧めている(ヤコブ5:8)。預言者から告げられた救い主を待ち望んでいたイスラエルの民は実際には救い主が来られた時、イエスを退け、呪われる民となってしまった。それゆえ、わたしたちは、身を起して頭を上げ、目を覚まして、主のお体なる教会に仕える確かな祈りを捧げつつ、救い主の来臨と共に主が再び来られるのを待ち望むクリスマスを迎えたいと願う。

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