神の選びと召し

12月18日の説教

梁在哲牧師

 

イザヤ書11章1~10節     ルカによる福音書1章26~38節

ルカによる福音書の受胎告知の箇所は、わたしたちの信仰告白の源となり、世々の教会は、使徒信条をもって「主は聖霊によりてやどり、おとめマリアより生まれ」と、唱え続けて来た。マリアは、天使ガブリエルから、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と、告げられたが、それはマリアにとって何とも受け入れ難い内容であった(ルカ1:30~33)。しかし、戸惑いを覚えていたマリアは、驚くべきことに、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と、天使に答えた(38節)。詩編の記者は、来るべき救い主、メシアは、ダビデに続く勇士として歌っている(詩編89:20~28)。一方、預言者イザヤは、ダビデの子孫なるエッサイの根から若枝としてメシアは、来られると、預言した(イザヤ11:1)。

しかし、その若枝は、小さい子どものように無力なメシアとして「正義をその腰に帯とし、真実をその身に帯び」、この世に生じ得ない「正義と平和」の状態をもたらすのだと、告げられる(11:5~6)。使徒パウロも、神の選びと召しは、世の無学や無力な者にこそ、及び、それは、「だれ一人、神の前で誇ることがないようにするため」だと、証した(コリントⅠ1:27~29)。このように聖書の御言葉は、「神の選び召し」は、わたしたちの人知を遥かに超えていることを伝えている。「わたしは、主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と、天使にへりくだって答えた母マリアを通して、御子イエス・キリストは、「小さい子ども」としてお生まれになられた。神の選びと召しは、この世で見下ろされ、軽んじられていた人々にこそ、及ぶ。人知を遥かに超える出来事の中で御子イエスは、誕生され、父なる神の御栄が現われるこのクリスマスを喜びをもって迎えるように主に祈り、願う。

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