生ける神の神殿

1月29日の説教

梁在哲牧師

 

ハガイ書2章1~9節    ルカによる福音書21章1~9節

紀元前538年、ペルシャ王コレスは、バビロンを滅亡させた後、ユダヤ人捕囚たちの帰国を許した。エルサレムに帰って来た彼らは、直ちに神殿の礎を築き始めた。預言者ハガイもその時帰国し、彼は先ず神殿の再建を激励し、万軍の主なる神は、新しい神殿に栄光と平和を与えると、告げた(ハガイ2:9)。神殿中心のユダヤ教の信仰は、バビロン捕囚によって揺らぎ始めたが、捕囚から帰って来た後、第二の神殿が再建された。イスラエルの信仰と歴史において、神殿は主なる神が臨在され、礼拝を捧げる場所として守られて来た。しかし、主イエスは、見事な石と奉納物に飾られている神殿に見とれている人々に厳しく予告された。(ルカ21:5~6)。神殿は目に見える建物ではなく、真心をもって神に礼拝を捧げる場所であるからであった。父なる神は、目に見える物に見とれ勝ちなわたしたちの罪を、御子イエスの十字架の犠牲を通して赦され、御子の復活を通して永遠の命への望みを与えられた。これこそ、御子イエスを通して現れた父なる神の愛ではなかろうか。

使徒パウロは、父なる神の愛に答えるために、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」と勧めた(ローマ12:1)。それゆえ、わたしたちは、聖餐式の度に「今、聖霊の助けにより感謝をもってこの体を生きた聖なる供え物として御前にささげます」と祈り続けている。その時、わたしたちは、詩編の記者が歌ったように父なる神の平和と慈しみを思い描き、身をもって感じることを許されるのではなかろうか(詩編48:10)。使徒パウロは、神殿こそ、主なる神が臨んでおられる場所であるゆえに、わたしたちは、「生ける神の神殿」なのである、と証した。主なる神がわたしたちの内に住み、巡り歩き、御自らわたしたちの神となり、わたしたちもその民となると、言われるからである(コリントⅡ6:16)。目に見える物に見とれ勝ちな弱くて欠点の多いわたしたちを、父なる神は、御子イエスを通して「生ける神の神殿」として新しく築き上げてくださった。わたしたちは、その大いなる愛に答えるために感謝をもって自分を聖なる生きた供え物として献げつつ、真心をもって礼拝に臨みたいと祈り願う。 

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