イエスの最初の同行者

1月14日説教

梁在哲牧師

 

サムエル記上3章1~10節     ヨハネによる福音書1章35~51節

少年サムエルは士師エリの導きによって主なる神に召され、アンデレは洗礼者ヨハネの証しを聞いて主イエスに召され、青年サウルはダマスコ途上で復活されたイエスに出会い召される。12歳の少年サムエルは、主なる神のお声を98歳の士師エリの声だと聴き間違えた。主なる神が三度サムエルを呼ばれた後、エリは少年を呼ばれたのは主であると悟り、サムエル「また、呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい」と言った(サムエル上3:8~10)。

アンデレは、故郷カファルナウムで兄シモンと一緒に漁師として生計を立てていたが彼は、もともと洗礼者ヨハネの弟子であった。ところが、洗礼者ヨハネがイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言ったので彼は、他の一人の弟子と一緒にイエスに従った。そこでイエスは、彼らが従って来るのを見て「何を求めているのか」と言われ、彼らが、「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは「来なさい。そうすれば分かる」と言われた(ヨハネ1:36~39)。そこでアンデレは、イエスに召された最初の弟子となった。

主イエスの地上での働きは、アンデレのような、誰かと共に行われるものであった。弟子たちは、主イエスの最初の同行者となった。主イエスと共に歩み、働いた同行者たちの心の中には、互いに厚く信頼し合って、全てを委ねつつ、互いに受け入れる心があれば、その一方、そこにはイエスを裏切り、独り占めようとする欲望のゆえに、相手を退ける心をも潜んでいた。しかし、主イエスは、弟子たちの弱さと醜さにも拘わらず、同行者として誰かと共に歩み、生きることを願っておられた。

弟子たちは、「見よ、神の小羊だ」とか、「わたしたちはメシアに出会った」と言った証言を聞いて、連れて来られ、主イエスに出会って弟子となる素朴な出会いを通して同行者として召された。我々も周りの身近な誰かによってイエス・キリストに触れるようになり、信仰の扉が開かれ、イエスを信じるようになったと思われる。

「律法の黙想」と呼ばれる詩編119篇の記者は、律法のために迫害を受けながら律法を守り抜き、バビロン捕囚を経験した祭司であり、書記官であったエズラあると言われる。記者は、若者が歩む道を清めるために主なる神の御言葉を忘れず、守り抜き、保つように歌っている(詩編119:9、16~17)。使徒パウロも自分の使徒の資格を疑い、拒むユダヤ人たちに、「福音と使徒の権威」は、分離できないし、自分の使徒の資格を否定する者は、福音をも否定することになると強く訴えた。

何故なら、パウロは、血肉の人間によるものではなく、御子イエスと、御子を死者の中から復活させた父なる神とによって異邦人への使徒とされたからである。(ガラテヤ1:15~16)。それゆえ、彼は、福音こそ、信じる者全てに救いをもたらす神の力のゆえに、自分は、福音を恥としないと大胆に証した(ローマ1:16)。新しい年のはじめに我々は、主イエスの同行者として聖霊の御助けのよって、福音を忘れず、守り抜き、保ちつつ、御子イエス・キリストを通して開かれた父なる神に至る一筋の道を、雄々しく歩みたいと祈り、願う。

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