御心に適うことを行う主

1月28日説教

梁在哲牧師

 

ヨブ記22章11節~28節 ヨハネによる福音書8章21節~30節

主イエスは、福音伝道の最初から多くの人々から見捨てられ、十字架の上で自分の命が奪われることを明らかにされた。主は、死と罪の奴隷となっている人々を解放してくださるために自分を身代金として払われ、十字架の道へ向かって行かれた。しかし、その本当の意味を受け止める者はいなかった。それゆえ、主は、「あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」と言われた(ヨハネ8:21・24)。世の中に、「真理という頂上に辿る道は、多数存在する」と多元主義のようなことをも唱えられている。しかし、聖書全体を貫く救いの道は、死ぬべき定めから救われるためにただ、イエス・キリストを信じる道しかない。その後、ユダヤ人たちは、ナザレのイエスがメシアであることに気づかず、十字架に付けられた後、初めて悟るようになると主は、予告された(28節)。

五旬祭の時、聖霊に満たされたペトロの説教を聞いた彼らは、胸を打ちながら、「兄弟、我々はどうすればよいのでしょうか」と悔い改めた(使徒2:37)。また、主は、自分はいつも「父なる神の御心に適うことを行う」ゆえに、自分をお遣わしになった父なる神が共にいてくださり、ひとりにしてはおかれないと言われた(29節)。それゆえ、父なる神は、変貌の山で「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と言われた(マタイ17:4~5)。御子イエスが父なる神の御心に適うことは、死に至るまでそれも十字架の死に至るまで従順でおられることに他ならない(フィリピ2:6~9)。主は、我々が如何なる困難や試練に直面しても、父なる神は、私たちと共におられ、私たちも父なる神と共にいると励ましてくださった。

詩編の記者は、十字架の道より自分勝手な道を空しく歩もうとするユダヤ人たちのように主なる神に信頼を寄せることなく、神に背き、遠く離れ、よこしまな自分の道にそれて行く者は、罪を犯し、悪を行う者と一緒に裁かれるように願っている(詩編125:5)。ヨブは、友人であるデマン人エリパスから、「あなたは、悪しき人々が踏んだいにしえの道を守ろうとするのか」と冷水を浴びせるような厳しい非難を聞かれ、なだれ落ちて行くようになった(ヨブ22:15)。使徒パウロは、主イエスの十字架は、ユダヤ人には、つまずかせるものであり、異邦人には愚かなものとして映されるが、主イエスを救い主として信じる者には、救いをもたらす神の力であると証した。この新しい年のはじめ、わたしたちは、聖霊の御助けによって父なる神が御子イエス・キリストを通して開いてくださった一筋の道を雄々しく歩み続き、御心に適うことを行い、御旨に喜ばれるそういう者であり続けたいと祈り、願う。

前回 目次へ 次回