再出発としての召し 2009年5月3日礼拝説教 原田史郎牧師 ヨハネ21章1~14 何事も立ち上げることには、多くの時間と汗と涙が伴います。だが、その出来上がったものが崩壊したとき、その再建は容易ではありません。むしろ、絶望的といった方がよいかも知れません。 弟子たちは、ティベリアス湖(ガリラヤ湖)に戻っていました。人は心に大きな傷を受けると、ふる里に戻ります。漁師出身であった彼らは、漁師に戻っていました。 ペトロたちは、漁に出ますが、夜通し働いても何もとれませんでした。徒労に終わった彼らを、復活のキリストは、岸に立って見ておられました。主は呼びかけて「舟の右側に網を打ちなさい」と指示されます、おびただしい魚が網を引き上げることができない程とれました。このことは、彼らが、この同じガリラヤ湖畔で、主イエスに召し出された状景を思い出させます。 それは、漁師に戻った弟子たちを、もう一度、主の復活の証人として召し出す、再出発としての召しでもあります。 岸に上がると炭火がおこしてあり、その上に魚もパンものせてあります。あたかも優しい父や母が、ひもじい子どもに温かい朝食を用意する、慈しみに満ちた保護者を見るようです。もう誰も「あなたはどなたですか」と聞くものはいません。主が共におられることが分かっていたからです。 私たちも、主のご臨在が分からないときは不安です。騒いだり、焦ったりします。言ってみれば不信仰なのです。信仰は、主を信じることです。見えないけれども、主の愛と導きに信頼し、主が共におられることを信頼したいものです、 主は「シオンのゆえに嘆いている人々に、灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油を」(イザヤ61:3)注いでくださるのです。新しい思いをもって出発しましょう。 |