神から逃げることは出来るのか 2009年8月23日礼拝説教 原田 史郎 牧師 ヨナ書1章1~15節 主は、ヨナに語りかけられます。「さあ、ニネベに行って、呼びかけよ」。 だが、この主の呼びかけを、ヨナは、承服出来ません。ヨナは、ニネベと反対のタルシシュに向かう船に乗り込み、船底でグッスリと寝込んでしまいました。主から「逃れる」という言葉は、「離れる」「自由になる」という意味があります。彼は、主の言葉に縛られたくなかったのです。自分の判断で自曲に行動したかったのです。 聖書やキリスト教の本が次々に大手の出版杜から出ていて、それが、結構売れているようです。けれども、関心があっても、聖書の教えや教会には、拘束されたくない。自分は自分の生き方がある、と考える人も多いのです。 ヨナは、何故、逃げたのでしょうか。ヨナの本心は「あたたは、恵みと憐れみの神であり、慈しみに富み、災いを思い直される神です」という神さまのご本質にありました。ニネベの人々は、イスラエルを苦しめ、圧迫していました。紀元前721年北イスラエル王国は、アッシリアによって滅ぼされます。そのような町に、どうして罪の赦しの宣教をしなければいけないのか。民族的預言者であるヨナにとって、主の言葉は、到底受け入れることの中来ないものだったのです。 しかし、主が、嵐を起こされると、事態が一変しました。くじによって、嵐の原因がおき、ヨナだと分かってしまったとき、預言者は「わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れるものだ」と告白せざるを得ませんでした。 神さまの言葉は、力があり、一度発せられたならば、事を成就するのです。主から隠れることは、一時的には出来るでしょう。しかし、主に選ばれ、愛せられているものは、決して主から、逃げおおせることは、出来ないのです。不当で、不条理に思われることもあるかもしれません。だが、そこに、深い神さまのご計画もまた、隠されているのです。 |