「神の家族になる」

8月27日

原田史郎

マタイによる福音書12章43~50節

 「イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた」どんな用事があったのでしょうか。

この辺の事情をマルコは「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである(マルコ福音書3章21節)」と書いています。それでも家族の来訪を知らせる人がいて、「お話したいと外に立っておられます」と主に伝えました。

 主は「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」と答えられ、外には出て行かれません。ここでは、もはや麗しい聖家族のイメージはなく、主と外にいる家族との緊張関係だけがあります。外の世界の基本は、血縁から出発します。家族を核として、隣から次第に外縁へと広がり、一つの社会、民族、国をかたち造ります。このような身内意識によって保たれている関係は、その掟に従っている限り心地よいものです。けれどもそこに、異なる生き方をする者、考え方の違う者が出て来ると、平穏が乱され、そこに差別や排斥が生まれるのです。蓮肪氏の二重国籍を執拗に追及したり、米国で白人至上主義が出てきたりするのも自然の成り行きでもあるでしょう。問題は、このような世界が、主の新しい世界をもとに引き戻し、その支配下にコントロールすることなのです。

 しかし今、どんな逆風が吹いても、主イエスによって、全く性質の違った新しい家族、共同体が生み出されたのです。その証しは「ベルゼブル論争」のときに、主が「神の国はあなたがたのところに来ているのだ(マタイによる福音書12章28節)」という言葉に表わされています。

主は弟子たちを指して「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹また母である」と言われました。神の霊は既にわたしたちの中に働いているのです。その神の霊による新しい家族は、出自や国籍、奴隷も自由人もないすべての人々に開かれています。教会を通して現わされるこの新しい家族に、わたしたち血縁の家族も喜びをもって仕えて歩むのです。

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