新たに主を讃美する日

5月19日説教

梁在哲牧師

 

エゼキエル書37章1~14節    使徒言行録2章1~11節

過越祭の時、酵母を入れないパンを食べ始める二日目の日から数えて50日目になる日に因んで五旬祭は始まるが、その時は、小麦の収穫の時期であるため、「七週祭」とも呼ばれた(出エジプト34:22・申命記16:9~10)。五旬祭の間、イスラエルの男性たちは、皆エルサレムの神殿に上ってエリサレムは、大勢の巡礼者たちでごったがえした。その日は、丁度日曜日だったので弟子たちも主の復活を覚え、また主に命じられた通り、祈りながら聖霊を待ち望んでいた。

旧約において風と炎は、主なる神の臨在を表すしるしであるが、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊 "が 語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2:1~4)。ガリラヤ出身の無学の弟子たちが、聖霊に満たされ、他の国々の言葉で話したのは、福音が国々の言葉で地の果てにまで宣べ伝えられるしるしあり、復活の主が弟子たちに預言した「新しい言葉を語る」ことである(マルコ16:17)。

その光景は、無秩序で、やかましくて食い違う混沌のように見られるかも知らない。しかし、祈りの声、激しい風の音、国々の言葉で語り出される声、それを聞いた人々の驚きの声、分かれ分かれに現れ、弟子たちの上にとどまった炎のような舌によって、弟子たちは、全く新しい祭りの人となった。バベル塔を建てあげた人間の高慢と欲望は、分裂をもたらしたが、その日は、聖霊降臨によって皆、一つにされ、ユダヤ人の祭りに閉ざされていた弟子たちの前に、全く新しい世界の扉が開かれ、「新たに父なる神を讃美」し、「新たに復活の主を讃美する日」となった。

エルサレムが滅亡される前にバビロンに連れ出された預言者エゼキエルは、当時25歳であった。しかし、エゼキエルは、30歳の時からイスラエルの人々に厳しい主なる神の裁きを告げ始め、イスラエルが完全に滅ぼされた後には、むしろ救いの望みを告げ続けた。エゼキエルは、主なる神は、お一人一人にお働きになり、心を改めさせられ、新しい霊によって回復されるイスラエルが真心をもって答える時が来ると、望み、預言した(エゼキエル37:14)。

詩編の記者は、天地万物を創造された主なる神の六日間の御業を褒め称え、霊を送って天地万物を創造され、地の面を新たにされた主なる神を褒め称えた(詩編104:29~30)。このペンテコステの朝、我々は、ご自分のみもとから聖霊をお遣わしになり、全てを新たに創造された父なる神を褒め称えつつ、過越の小羊として屠られ、その血潮によって罪と死の奴隷の国から、私たちを解放してくださった御子イエス・キリストを新たに讃美したいと祈り、願う。

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」。そして、大河とその支流が緩やかに流れ、神の都シオンとそこにあるいと高き主なる神の聖所を潤すように(詩編46:5)、「ご自分を信じる者、渇いている人」に、一時の水を与えるだけではなく、「その人のから生きた水が川となって流れ出るようになる」と言われた(ヨハネ7:38)。復活の主イエスに出会い、主イエスを信じる我々は、内から川となって流れ出る生きた水を自分だけが飲むのではなく、周りの人々にも与え、大河の流れが神の都シオンと神の聖所を潤すように主のお体なる教会と教会の枝として連なっている者を潤すことが出来るように祈り、願う

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