定められた時に現れる主

5月26日説教

梁在哲牧師

 

イザヤ書40章12~17節     テモテへの手紙一6章11~16節

使徒パウロは、一時、ローマの牢屋から解放され、以前伝道した諸教会を訪問する間に当時、エフェソ教会で様々な課題に取り組んでいたテモテ宛に手紙を送った。パウロは、金銭の欲だけではなく、神を神たらしめ、畏れ敬うより、人々の誉れや称賛、名誉と地位などを追い求めるこれらのことに全ての悪の根は、潜んでいるゆえに、「神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい」、そして「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい」と厳しく命じた(テモテⅠ6:10~11)。

そして、信仰から迷い出て、様々なひどい苦しみで突き刺される者にならないように全ての悪の根と戦い続け、「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい」と命じた(12節)。パウロは、他の書簡でその信仰の戦いを立派に戦い抜く姿を、「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」と証した(フィリピ3:14)。「ひたすら走る」ことは、神以外のものに脇見をせず、他の物に目を奪われず、心が分かれることなく定まり、よろめくことなくまっすぐ步むことではなかろうか。

それゆえ、詩編の記者は、主なる神に信頼を寄せる者は、「神の教えを心に抱き、よろめくことなく步む」と歌った(詩編37:31)。預言者イザヤは、バビロンの捕虜生活に苦しんでいるイスラエルの人々にその苦しみは終り、主なる神が治めてくださると告げた。そして、全能の神の御前に、バビロンやアッシリアのような国々は、無に等しく、空しくうつろなものに過ぎないゆえに、何か誰に似せて、像に仕立てるような偶像崇拝を捨ててまことの主なる神のみに信頼を寄せねばならないと告げた(イザヤ40:17~18)。

主イエスご自身、十字架の苦しみと復活を通して「信仰の戦いを立派に戦い抜く」その模範をお示しになった。それゆえ、父なる神は、御子イエスの信仰の戦いの模範に倣い、信仰の戦いを立派に戦い抜く者に、「永遠の命」を約束してくださった。我々は、聖霊の御助を求めつつ、父なる神が定められた時にキリストを現わしてくださり、主が再び来られるまで信仰の戦いを立派に戦い抜き(テモテⅠ6:14~15)、父なる神が御子イエス・キリストによって上へ召して、お与えになる賞、永遠の命を目指してよろめくことなく歩み、ひたすら走りたいと祈り、願う。

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