主の名を呼び求める者

6月2日説教

梁在哲牧師

 

イザヤ書52章7~12節   ローマの信徒への手紙10章5~17節

使徒パウロは、第三回目の伝道旅行の終点、コリントで3ヶ月間エルサレム行きの船を待ちながらこのローマ書を書いた。ところが、ローマ教会のユダヤ人たちは、イエスを信じるようになったにもかかわらず、主イエスを信じる信仰によってのみ救われ、義とされることを怠って、否、ないがしろにして、依然として律法や行いに縛られていた。それゆえ、パウロは、「キリストを引き降ろすために天に上る必要がなければ、キリストを引き上げるために底なしの淵に下る必要もない」と厳しく戒めた(ローマ10:6~7)。もともと、パウロの第三回目の伝道旅行の主な目的は、異邦人教会から献金を募って飢饉に苦しんでいたエルサレムの教会を助けることであった。そのため、彼はエルサレム教会に献金を渡した後、そこからすぐローマに出発しようとした。そのためにパウロは、ローマへ行く前にコリントで前もってローマ教会の信徒宛にこの手紙を書いたが、それは聖霊のお働きがなければ到底出来ない執筆であった。しかし彼はエルサレムで逮捕され、ガイサリアで投獄され、ローマのほうに移送された。

パウロは福音がどのような経路を辿って宣べ伝えられ、救いをもたらすのかについて解き明かした。その最初の経路について主なる神は、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお惠みになり、主の名を呼び求める者は、だれでも救われると証した(ローマ10:11~13)。そして次の経路として信じることがなければ、主の名を呼び求めることは出来ないし、信じることのないまま、主の名を呼び求めたらそれは偽りであると証した(14節)。主イエスは、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」と言われた(マタイ7:21)。続いて信仰は、聞くという経路を通して始まるがゆえに、「聞いたことのない方を、どうして信じられよう」と証した(ローマ10:14)。ペトロも弟、アンデレから聞き、ナタナエルもフィリポから聞いた(ヨハネ1:41、45)。また、福音を宣べ伝える経路を通して聞くことができるゆえに、「また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう」と証した(ローマ10:14)。主イエスは御自ら、弟子たちをお呼びになり、福音を宣べ伝えるように命じられた(マタイ10:5~7)。

そして、遣わされる経路を通して福音が宣べ伝えられるゆえに、「遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう」と証した(ローマ10:15)。福音を宣べ伝える者は、遣わされなければならないが、福音伝道に燃える心がなければ、それはやかましいシンバルのようなものに過ぎない。最後に、バビロン捕囚民に解放の良いお知らせを伝える者を通して来るべき救い主を預言したイザヤを用いて(イザヤ52:7)、罪と死の奴隷となっている者にキリストは来られ、解放してくださる「良いお知らせを伝える者の足はなんと美しいことか」と証した(15節)。走って来る使者のその足は、急いで、険しい山路を掛け走り、誠実で真実な願いと素早く近づく「福音」そのものではなかろうか。また、聞いたことがなかったと言い訳するイスラエルの不信仰を厳しく戒めた(ローマ10:18)。彼らが聞いたことがなかったその声は、全地に響き渡り、詩編の記者が褒め称えた主なる神の御声に他ならないし、その言葉は、世界の果てにまで及ぶものであるからである(詩編29:3~5)。我々は、主日礼拝毎に、主イエスよりこの世に遣わされる者として折を得ても得なくても主の十字架と復活を証しつつ、福音を宣べ伝えたいと祈り、願う。

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