弱さを通して実現される平和

6月23日説教

梁在哲牧師

 

ヨナ書4章6~11節    エフェソの信徒への手紙2章11~22節

エフェソの信徒への手紙は、ローマの牢屋の中で使徒パウロが書いた獄中書簡として知られているが、全般を貫いているものは、教会は、キリストを頭とし、ユダ人であれ、異邦人であれその隔たりは壊され、キリストにおいて一つの体となることである。パウロは、救われる前の異邦人の実態について「彼らは、異邦人であり、割礼のない者、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていた」と明らかにした(エフェソ2:11~12)。しかし、異邦人の救いを願っておられた主なる神は、とうごまの木のことで怒りと不満を露わにしているヨナに「この大いなる都二ネベを惜しまずにいられるだろうか」と言われた(ヨナ4:9~11)。

主イエスは、最後の過越の食事の際、杯を取り、「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言われた(マタイ26:28)。パウロは、その新しい契約によって異邦人が先に救われ、その結果ユダヤ人と異邦人は、「以前は遠く離れていたが、今や、キリストの血によって近い者となり、キリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされた」と証した「(エフェソ2:13~16)。キリストの十字架の血によって両方の敵意という隔ての壁は、取り壊され、互いに近づき、向き合い続けるようになり、神の御前に近づくことを許された。

紀元前536年、ペルシアの王キュロスは、イスラエルの民に帰還して自分たちの神殿を建てるように命じて解放した(エズラ1:2~3)。詩編の記者もその帰還の喜びを歌った(詩編126:4~6)。キリストの十字架は、ユダヤ人には、躓かせるもので異邦人には愚かなものであるがゆえに、十字架の弱さによる平和は、無力で何の頼りもないように見えるかも知れない。しかし、昔イスラエルの民が「涙と共に種を蒔き、喜びの歌と共に刈り入れるように。また種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は束ねた穗を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる」ように十字架の弱さは、確実に実を結び、その根を降ろして揺らぐことのない主にある新しい平和をもたらすのである。

主を信じる者に十字架は、救いをもたらす神の力と愛であるがゆえに、十字架の弱さを通して実現される平和の福音は、力によって強制的につなぎ合わせることではなく、自らの強さを誇り、他の者を脅かすことなく、キリストの犠牲、その十字架の弱さを通して実現されるからである。ここ数年間、強大国の武力の誇示が横行するなかで我々は、十字架の弱さを通して敵意という隔ての壁を取り壊わし、真の平和が実現されるように祈る。そしてキリストの十字架の血潮が身代金として払われ、罪と死の奴隷から解放された我々は、「福音の種の袋を背負い、世に遣わされ、涙と共に福音の種を蒔き、喜びの歌と共に刈り入れ、喜びの歌をうたいながら帰ってくる」そういう者にあり続けたいと願う。

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