聖餐の秩序 7月28日説教 梁在哲牧師 箴言9章1~11節 コリントの信徒への手紙一11章23~29節 初代教会において聖餐は、愛餐会を兼ねて行われたが、紀元後220年開かれたカルタゴ総会以降、愛餐会から分離され、夜から朝の礼拝に移され、行われるようになった。愛餐会の秩序が乱れて、いつの間にか主の晩餐が個人の晩餐となったからである。それゆえに、パウロはその無秩序をほめるわけにはいかないと厳しく戒めた(コリントⅠ11:21~22)。しかし、ソロモンが人を諭し、戒め、叱る上で求められる知恵について明らかにしたように、パウロも主にある愛と知恵をもってコリント教会の人々を厳しく戒めた(箴言9:7~8)。 パウロは、愛餐会の無秩序について厳しく戒めた後、「聖餐の秩序」について厳粛に述べた(11:23~26)。それは、今日の聖餐式の度に「制定の御言葉」として朗読されているが、パウロは、主から委ねられた聖餐の権威を示し、主が逮捕された厳粛な夜の光景に触れた。そして、聖餐(ユカリスト)は、正に感謝の祈りを捧げるユカリステサス(Thanks Giving)に由来するものであり、主が最後の晩餐で弟子たちにパンを裂き、お配りになったように聖餐は、個人の晩餐ではなく、主のお体と血を記念し、主にある交わりにあずかる主の晩餐であることを明らかにした。 イスラエルの民が過越祭を通してエジプトの国から解放されたことを記念したように、主イエスは、ご自分の血による「新しい契約」によって罪と死の奴隷から解放された救いの記念として聖餐を行いなさいと命じられた。主なる神がモ-セを通して結ばれた契約は、イスラエル民の罪と不信仰によって破壊されたが、預言者エレミヤは、父なる神は、救い主を通してイスラエルの残された者と共に「新しい契約」を結ぶことを預言した(エレミヤ31:31)。詩編の記者も、主なる神に心が定まらず、契約に忠実ではなかったイスラエルの不信仰にも拘わらず、怒りを静め、憤りを尽くされない主なる神の御憐れみを褒め称えた(詩編78:24~25・35~38)。 主がわたしたちのために十字架の上でお体が裂かれ、血を流されたことを覚え、我々は、聖餐にあずかり、主の死を記念し続け、主が再び来られる時まで主の死を告げ知らせるのである。聖餐は、主が再び来られる「小羊の婚礼の日」の祝宴の影であり(ヨハネ黙示録19:7~8)、主の死を記念すると同時に、主が再び来られるその日、開かれる「天の宴」を準備するものである。パウロは、聖餐の聖なる意味を知らず、主の晩餐が個人の晩餐になってしまったゆえに、主がわたしたちの罪のために十字架で亡くなられたその死を記念する聖餐の意味をよくわきまえなさいと厳しく戒めた(27~29節)。 それゆえ、「多くの人のために流された主イエスの血による新しい契約」(マタイ14:24)を結ぶ者に施される聖餐の恵みをわきまえて、悔い改めと罪の赦しの洗礼が求められる。「『神は岩、いと高き神は贖い主』と唱えながらもその口をもって神を侮り、舌をもって欺いた」(詩編78:35~36)人間の罪深さと醜さにも拘わらず、父なる神は、御憐れみをもってわたしたちを招き、主の晩餐にあずからせてくださり、御子イエス・キリストのあがないの恵みを、わたしたちの内に確かめ、罪を赦し、汚れを清め、とこしえの命を与え、御国の世嗣としての望みを堅くしてくださった。どうか、聖霊の助けにより、キリストの復活の力を知り、その苦しみにあずかり、おりを得ても得なくても、御言葉を宣べ伝えることが出来るように祈り、願う。 |