世に打ち勝つ信仰 8月4日説教 梁在哲牧師 士師記6章36~40節 ヨハネの手紙一5章1~5節 使徒ヨハネは、真の勝利をもたらす信仰は、曖昧な信仰ではなく、この世に人間として来られて、罪人に救いをもたらした神の御子イエス・キリストを信じる信仰であると証した。そして、救いを確信する信仰が心の中で芽生え、御子イエスが救い主であると信じる人は皆、聖霊によって「父なる神から生まれた者」となり、真の勝利をおさめる者の信仰の目標は、キリストにあり、我々の罪のためにその独り子さえ惜しまず、十字架の犠牲に与えてくださった父なる神の愛を悟る者は、神から生まれ、神を愛する者をも愛すると証した(ヨハネ手紙Ⅰ5:1)。 しかし、自分の心の中にある偶像たちに依り頼っている者の信仰は、真の勝利をもたらすことは出来ない。一方、主イエスを信じると自負しながら、キリスト以外のものを自分の信仰の目標とし、それらが救いをもたらすと信じ込んでいる者もいる。しかし、真の救いをもたらし、勝利をおさめる信仰は、誰でも得られるようなものではなく、父なる神から与えられる贈り物である。それゆえ、主は、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白したペトロに、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と言われた(マタイ16:17)。 詩編の記者も「君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない」と明らかにし(詩編146:3)。また、ヨハネは勝利をおさめる信仰は、従順する愛であり、神を愛するとは、神の掟を守ることであり、「神の掟は難しいものではない」と証した。(ヨハネ手紙Ⅰ5:3)。「難しい」とは、本来「重たい」、また「重荷となって負担になる」、或いは「あきれる」意味である。しかし、誰も、信仰生活の中で難しさを覚え悩み、嘆く時さえあるのではなかろうか。しかし、その独り子を惜しまず、十字架の犠牲に与えてくださった父なる神の愛と、十字架の死に至るまで、従順でおられた御子イエスが背負われた十字架の重さを思えば、誰が「難しい」と言えるだろうか。 ヨハネは、主イエスを信じる者は、「絶えず戦って、絶えず勝利をおさめつつある」が、主イエスが十字架と復活を通して「罪と死」に打ち勝ち、「世」に勝利をおさめられた「一回限りの勝利」こそ、信仰であると証した(4~5節)。主イエスが勝利をおさめられたゆえに、主イエスを信じる者も皆「世に打ち勝つ」勝利をおさめる者となる。使徒パウロは、しるしを求めるユダヤ人には(士師記6:36~40)、十字架は、つまずかせるものであるが、十字架につけられたキリストを宣べ伝え、召された者には、神の力、神の知恵であると証した(コリントⅠ1:22~24)。 しかし、「世に打ち勝つ者」は、相手を打ち負かし、自分だけが目立つような存在となることではなく、「他者と共に生きていく」存在を目指すことではなかろうか。父なる神を愛する者は、心を尽くし、魂を尽くして神を愛し、隣人を愛する神の掟をも守るからである。父なる神は、その独り子を惜しまずに十字架の犠牲としてお与えになり、御子イエスは、十字架の死に至るまで従順でおられ、聖霊を通してわたしたちにキリストを信じる信仰を与えてくださった。どうか主の十字架と復活を通して罪と死に一回限りの勝利をおさめられた御子イエスを仰ぎつつ、聖霊の御助けによって世に絶えず戦いつつ、絶えず打ち勝つことが出来るように祈り、願う。 |