神の業に目を向ける者

8月11日説教

梁在哲牧師

 

ヨブ記28章12~28節   コリントの信徒への手紙一3章1~9節

使徒パウロは、十字架につけられたキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもので、異邦人には愚かなものであるが、召された者には、神の力であり、神の知惠であるキリストを宣べ伝えると証した。何故ならば、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである(コリントⅠ1:23~25)。パウロは人間の知恵と神の知恵を比べたが、ヨブは、最後に答えとして神の知恵を褒め称えた。ヨブは、この世に知恵はなく、神のみに真の知恵があると告白し、神の知恵を褒め称えた(ヨブ28:12・20・28)。コリント教会を最初尋ねた時から既に5年が過ぎたが、パウロは、悔い改めて聖霊に従って生きる「霊の人」に対するように語ることができなかった。彼らは、悔い改めたにも拘わらずまだ、人間の働きに偏ってキリストとの関係では、乳飲み子のように固い物を口にすることができなく、相変わらず「肉の人」であったからである。

そこでパウロは、教会の争いや分裂の原因は、人間の働きを神の働きより優先し、こだわり過ぎて神の業に目を向けないからであると戒めた(コリントⅠ3:1~4)。ねたみと争いは、人間の働きであり、ねたみは、心の中の悪意、そして争いは、それらが外に表われるものであるからである。パウロが最初コリント教会に福音を宣べ伝え(使徒18:1~18)、その後、アポロが神の御言葉を雄弁で福音を解き明かした(使徒18:24~19:1)。そこでパウロは、自分たちは、「ただ、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者で、神のために力を合わせて働く者であるが、あなたがたは、神の畑であり、イエス・キリストという既に据えられている土台上に建てられた建物、神の家である」と伝えた。そして、自分は神の畑に福音の種を植え、アポロは水を注いだが、その畑の持ち主である神は、植物を成長させ、実を結ぶようにしてくださると証した(コリントⅠ3:5~9)。

大切なのは、植える者も水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神の働きであり、それは絶えることなく続かれる。チャルス・ウェスレは、「神はご自分のために力を合わせて働く者を埋葬され、ご自分のお働きを続けておられる」と言った。南房教会も高倉先生ご夫妻を始め、信仰の先人たちが福音の種を「植え」、引き続き、「水を注いだ」が、成長させてくさる神の働きは、今も続いているのではなかろうか。詩編の記者は、人間の最大の祝福は、主なる神の幕屋に入り、聖なる山に住むことであると褒め称えた。それゆえ、神の家に住む者は、「主を畏れる人を尊び、悪事をしないとの誓いを守る人」である(詩編15:1~5)。ご自分の畑に植えられ、水を注がれた福音の種を成長させてくださり、わたしたちを御子イエス・キリストを土台にするご自分の家に住ませてくださる「父なる神の業に目を向ける者」として、聖霊の御助けを求めつつ、この地上の旅路を続けたいと祈り、願う。

前回 目次へ 次回