キリストの光に照らされる者

8月25日説教

梁在哲牧師

 

出エジプト記13章17~22節

エフェソの信徒への手紙5章11~20節

エフェソの信徒への手紙の中で頻繁に現れる言葉の中で、「満ちる。満たす、満ち溢れる」を意味する「プレエロオマ」というギリシア語がある。パウロは、「キリストのお体なる教会は、全てにおいて全てを満たしているキリストの満ちておられる場で万物を完成させられるキリストのご計画が成し遂げられる場である」と証した(エフェソ1:23)。また、「プレエロオマ」は、ヨハネによる福音書の序文にも「栄光」と記されている(ヨハネ1:14・16)。日光のスペクトルが七色からなるようにキリストは、栄光として、また世の光りとしてこの世に来られ、「私は世の光である。私に従う者は暗闇の中を步かず、命の光を持つ」と言われた(ヨハネ8:12)。

当時、エフェソ教会の中では、律法を重んじ過ぎて自分は勿論他者にも強いる者があれば、全く逆に反律法的に振舞う者もあって両方共に彼らは、自分たちの道を「新しい生き方」だと自称した。そこでパウロは、それらは、「実を結ばない暗闇の業」だと指摘し、世の光りとして来られたキリストに結ばれた者は、「キリストの光に照らされた者」として「実を結ばない暗闇の業を捨てて、ひかりの子として歩みなさい」と勧めた(エフェソ5:8~9・11節)。主なる神は、エジプトの国から解放されたばかりのイスラエル民を火と雲の柱で照らし、導いてくださった(出エジプト13:21~22)。しかし、キリストの光りは、全ての人をあまねく照らしてくださるゆえに、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(ヨハネ1:9)。

そこで、パウロは、みだらな行為で道徳的な感覚が麻痺して「眠りについている者」、また神に背き、離れて「霊的に死んだ者」、彼らは、闇の中にいるが、しかし、全てのものは、皆、「キリストの光」に照らされ、明らかにされると証した(エフェソ5:14)。初代教会において讃美は、互いに相手の賛歌に答える形で語り合うように交代で歌ったと言われる。しかも、誰かに強いられることなく、キリストの復活を信じ、生きて行こうとする者たちが、互いに語り合い、慰め、喜び、感謝、嘆きを主に向かって心から褒め歌うものであった。それゆえ、パウロは、キリストに結ばれ、キリストの光に照らされた者は、聖霊に満たされ、詩編と賛歌をもって互いに語り合い、全てにおいて全く新しい生き方をするように呼びかけた(5:18~19)。

詩編の記者は、強いられることなく、「主なる神に向かって喜びをもって心からほめ歌う」ように褒め称えた(詩編98:4~8)。私ともの南房教会は、様々な苦しみや困難と試練に直面している現実の中でも、キリストのお体で全てにおいて全てを満たしているキリストの満ちておられる場である。我々は、教会の頭なるキリストがご自分の計画を必ず成し遂げてくださることを信じつつ、御子イエス・キリストに結ばれ、「キリストの光に照らされる者」として、聖霊に満たされ、罪と死の奴隷から解き放たれた喜びの歌を父なる神に向かって心から褒め歌いたいと祈り、願う。

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