死の力に屈服しない者

9月1日説教

梁在哲牧師

 

エレミヤ書28章1~17節   ヨハネの手紙一5章10~21節

使徒ヨハネは、主イエスの教えを歪め、超越した神秘的な知識のみ救いをもたらすと、異端の説を広める群れに向かって繰り返して反駁した。特に彼らは、人間イエスが洗礼を受けられた際、キリストは下り、イエスが十字架につけられる前、イエスから離れたと、またイエスは、神の子ではなく、十字架の犠牲と罪の贖いをも否定した。そこでヨハネは、次のように強く反駁した。「神の子を信じる人は、自分のにこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子のにあるということです」と(ヨハネⅠ5:10~11)。南ユダ王国の最後の王、ゼデキア治世の時、預言者エレミヤは、民を安心させようとして神を偽り者にしてしまった偽預言者ハナンヤを厳しく戒めた(エレミヤ28:15~17)。ハナンヤがバビロンのネブカドネツアル王が捕虜として連れ出したユダヤの王と民たちは勿論、略奪した財貨も2年の内に全部返し、主なる神はバビロン王の軛をも砕けると偽りの預言を告げたからである。

一方、「神の子を信じる人のにある証し」とは、どのようなものであろうか。先ず、ヨハネは、その証しとは、「永遠の命は父なる神が私たちに与えられた贈り物」であると述べた。「税金と死は誰も避けられない」と巷で言われているが、死ぬべき人間の努力や力で到底得ることの出来ない永遠の命こそ、父なる神の贈り物であるとヨハネは証した。また、ヨハネは、次の証しとして父なる神が私たちに与えられた「永遠の命は、御子イエス・キリストの内にある」と述べた。人間として世に来られて私たちを罪と死から解き放ってくださるため、ご自分を十字架の上で生贄として捧げられ、三日目に死人の内よりよみがえられた御子イエス・キリストを信じる者に永遠の命が与えられるからである。そして、何よりも、御子イエスの復活こそ、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順でおられた御子イエスを大いに喜ばれた父なる神御自身の証しに他ならない。それゆえ、永遠の命と死の分かれ道は、「我々の内にキリストがおられるかどうか」にある。もし、キリストが我々の内におられるなら、わたしたちは、勿論周りの人々もそれに気づくはずである。

しかし、自分の内にキリストがおられないことに気づいても落胆することはない。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる」からである(ヨハネⅠ5:14)。詩編の記者ダビデは、「祈りを聞いてくださる神よ」と告白し、イスラエルの民だけではなく、遠い海、地の果てに至るまで万民が信じてより頼む主なる神は、悪しき者を裁く恐るべき御業をもってふさわしい答えをなさると褒め称えた(詩編65:3・6)。御子イエス・キリストを復活させた父なる神の力は、その全く同じ力によってわたしたちを永遠の命に生き返らせてくださるゆえに、わたしたちは、「死の力に屈服しない者」となる(コリントⅠ15:12~28)。御子イエス・キリストの十字架の血潮とご復活を通して死と罪の力は、打ち破られたからである(コリントⅠ15:54~55)。最後にヨハネは、わたしたちの内にキリストの代わりに占めている全てのものこそ、偶像であるがゆえに、「子たちよ、偶像を避けなさい」と強く勧めた(ヨハネⅠ5:21)。わたしたちは、そのよびかけにハレルヤ・アーメンと答えつつ、「死の力に屈服しない者」として主の復活の力を知り、世の悪と苦しみ、死と罪の力を打ち破り、勝利をおさめたいと祈り、願う。

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