痛みと苦しみを伴う信仰

9月8日説教

梁在哲牧師

 

エレミヤ書50章4~7節     ペトロの手紙一2章11~25節

ペトロの手紙は、新約聖書の中であまり読まれていない書簡の一つだと言われるが、キリストの召し使いとして相応しい生活を勧めている。この手紙は、紀元後63年頃、当時小アジア(現在のトルコ)の北部中央地域に住んでいたキリスト者宛にローマで書かれたと言われる。手紙全体を貫いている主題は、「試練と迫害の時期を生きるキリスト者の生活」であるが、ペトロは、キリスト者の特権と責任を述べる上で彼らが抱いている栄光に輝く望みをも強調した。恐るべき迫害の雲が既に小アジアに住んでいたキリスト者の上に垂れ下がっていたからである。しかし、彼らに与えられたキリストの賜物は、暴風のような全ての試練と迫害を耐え忍んで勝利をおさめる上で十分なものであった。

 一方、小アジアのキリスト者の大半は、奴隷だったようで、手紙の宛先は、家庭の召し使いであった。そこでペトロは、主人の不当で気難しさにも耐え忍ぶなら、父なる神の御心に適うことなり、祝福されると彼らを励ました(ペトロⅠ2:18~19)。そして、キリストは、彼らの罪を担ってくださるために十字架の苦しみを受け、その足跡に続くようにと、御自ら、模範を残されたと伝えた(21~24節)。また、ペトロは、善を行って苦しみを受け、不当に扱わされ、迫害を受けてもそれらに耐え忍ぶなら、神の御心に適うようになり、祝福され(20節)、羊のようにさまよう彼らは、まことの羊飼いでおられるキリストの牧場の内に守られ、報われると励ました(25節)。

まことの牧場の内に守られ、静かに憩いの場で過ごす者があれば、自分の失敗に苛立って、神と人に対して憤りを覚え、益々歪んだ道に迷う者もある。それゆえ、主なる神は、預言者エレミヤを通して迷える羊の群れのようにイスラエルの民は、主なる神のまことの牧場と憩いの場を忘れ、遠く離れたと告げられた(エレミヤ50:6~7)。息子アブサロムの反逆から逃れ、荒れ野で避難生活を強いられていたダビデは、苦しい状況の中でも主なる神に信頼を寄せつつ、主の家に帰り、生涯、そこにとどまるであろうと主なる神のまことの牧場を慕っていた(詩編23:1~6)。

地球上のあらゆる紛争や戦争の中で人々は、何倍返しの報復と復讐の道を選んで行く。しかし、御子イエスの十字架は世の残酷さ、高ぶり、ねたみ、邪まな行い、無慈悲さの中で示された父なる神の愛の模範であり、十字架の死に至るまで従順でおられた御子の模範である。世の政治家さえ、自分の政治的な信念を貫くためなら、憤りや憎しみと確執を切り捨てる時勢の中で、我々は、「痛みと苦しみを伴う信仰」の中て聖霊の御助けによって高ぶりや酷い憤りを切り捨てて全てのことを耐え忍ぶように祈る。そして、御子イエスを通して示された父なる神の愛の模範に従う僕として生涯、まことの牧場に導かれ、とどまるであろうと褒め称えたいと願う。

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