永遠の住み家に生きる者

9月29日説教

梁在哲牧師

 

ダニエル書12章1~4節  コリントの信徒への手紙二5章1~10節

使徒パウロは、弱い外なる人は衰えるが、神の似姿で創られた内なる人は、聖霊によって日々新たにされるから落胆しないように励んだ(コリントⅡ4:16)。そして、「地上の住み家である幕屋」と「天にある永遠の住み家」の例えを挙げてコリント教会の人々を慰めた。詩編の記者は、主なる神から罪を赦され、恵みに満ち溢れる神の家の庭に宿る者は、幸いであり、神の民として選ばれ、恵みに与ることを褒め称えた(詩編65:5)。先ず、パウロは、人は死んで、「地上の住みかである幕屋」が滅びても「天にある永遠の住みか」が神によって備えられているゆえに、自分は、生きている間、主が再び来られ、「天にある永遠の住み家を上に着たいと願い、地上の幕屋にあって嘆いている」と告白した(コリントⅡ5:1~2)。そして、生きている間、主が再び来られて、「天から与えられる住みかを上に着る」ようになるから、「地上の住み家である幕屋」を脱いでも「裸のままではない」と証した(3節)。

次に、「地上の住み家である幕屋」の重荷を背負って呻いても「死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために」死なないで生きたまま主が再び来られ、「天から与えられる住みかを上に着たい」と願った(4節)。パウロは、エノック(創世記5:24)やエリヤ(列王記下2:11)のように、生きている間、主が再び来られ、「天から与えられる住みかを上に着たい」とその栄光を待ち望んだ。そして、「神は、わたしたちをそのようになるのにふさわしい者としてくださり、その保証として聖霊を与えてくださった」ゆえに、心強くなるが、御子イエスは、既に天に昇られ、体を住み家としている限り、わたしたちは主から離れていることを信仰の目によって知っていると証した(5~7節)。ところが、当時コリント教会の中には、いずれは、天にある永遠の住み家に生きるのだからと、地上の生活を見くびり、勝手に振舞う者がいた。

しかし、パウロは、決して自分が生きている間、主が再び来られることに固執した訳ではない。彼は、むしろ、生きるにしても死ぬにしても主と共にいることを願った。そして、「皆、キリストの裁きの座の前に立ち、めいめい体を住みかとしていた時に行ったことに応じて報いを受けねばならないから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても主に喜ばれる者でありたい」と励ました。(8~10節)。ダニエルは、終わりの日に悪者も善者も皆、復活させられ、裁きを受ける幻を見た(ダニエル12:2~4)。しかし、パウロが言った裁きは、罪に対するものではなく、行いに応じて受ける報いについての裁きであるために、救いの恵みと喜びは、消えない。

天にある永遠の住みかに迎えられる約束があるからこそ、我々は、地上の苦しみや悲しみを耐え忍び、信仰の歩みを全うする勇気を与えられる。我々の嘆きと呻きは、重荷を背負っている弱い者にキリストの福音が託されている証しではなかろうか。一方、天にある永遠の住み家を何とか自分の力で得ようとする一切の行いは、自分が神のように振舞うことと同じであるがゆえに、それは罪に他ならない。父なる神は、わたしたちを、「天にある永遠の住み家に生きる」のにふさわしい者としてくださり、その保証として聖霊を与えてくださった。我々は、そのご約束に勇気づけられ、御子イエス・キリストが再び来られるのを待ち望みつつ、地上の幕屋を蔑ろにせず、常に、主に喜ばれる者として地上の旅路を歩み続けたいと祈り、願う。

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