福音の前進のために生きる者

10月6日説教

梁在哲牧師

 

ヨブ記42章1~6節   フィリピの信徒への手紙1章12 ~20節

使徒パウロは、ローマの牢屋に投獄されている自分のために献金を募って送ってくれたフィリポ教会宛に感謝の手紙で書いた。しかし、それは単なる感謝状ではなく、人を愛し、キリストを愛する深い信仰の証しが喜びに溢れ、綴られた手紙であった。彼らは、熱心に献金を捧げることに励み、殊にパウロを誰よりも愛し続けた。しかし、その熱心さと愛にも拘わらず、まだ信仰歴の浅かった彼らは、パウロの投獄が福音伝道を妨げ、不利になるのではないかと疑問や憂いと不安を抱いていた。そこでパウロは、それらの全てを追い払い、苦難や試練の中でも「前進するキリストの福音の力」を解き明かしてくれるこの手紙を送った。

 主イエスは、前進する福音の力について「一粒の麦は,地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と言われた(ヨハネ12:24)。詩編の記者は、「何故、悪人が安泰しているのか」と悩んでいた(詩編73:3)。しかし、その悩みは、解決され、主なる神を遠ざかり、世の安泰だけを追い求めた末、滅びる悪人とは違って詩編の記者は、「主なる神に近くあることを幸いとし、主なる神に避けどころを置いて御業をことごとく語り伝えること」を使命とした(詩編73:27~28)。それは、正に、「福音の前進のために生きる者」の影に他ならない。

先ず、パウロは、厳しい投獄生活の中でも、自分の身に起った全てのことがむしろ、福音の前進に役立ったと、毅然とした信仰を示した。それゆえ、ローマの役人や主に結ばれた多くの者がその姿を見て確信を得、恐れることなく益々勇敢に御言葉を語るようになり、それらの出来事は、「福音前進」の大きなきっかけとなった(フィリピ1:12~14)。また、パウロは、ねたみや争い、善意や愛、そして不純な動機であれ、口実であれ、真実であれ、キリストが告げ知らされているのだから自分は、それを喜んでいると証した(15~18節)。

しかし、パウロは、その喜びの源は、自分の力ではなく、聖霊の働きとフィリピ教会の人々の祈りによるものであり、あらゆる排斥や迫害、また歓迎が入り混じっている現実こそ、自分の永遠の救いのために益となることを知ったと告白した(19節)。主なる神にヨブが最後に、「知識もないのに神の経綸を隠そうとして、自分には理解できず、自分の知識を超えた驚くべき御業をあげつらっておりました」と告白したように(ヨブ42:3)、パウロは、以前、主イエスを迫害した青年サウロが今、使徒パウロになったのは、自分の力では到底成し遂げられない御業であることを誰よりもよく知っていたからである。

また、パウロは、自分を不純な動機や悪意で誹謗中傷する者も、自分を捕らえているローマの権力者も、どんなことにもキリストの福音の前進のために遣わされた自分の心は、恥をかかすことはないと確信し、「生きるにも死ぬにも、自分の身によってキリストが公然とあがめられるように」と切望した(20節)。わたしたちは、「福音の前進のために生きる者」として聖霊の御助けを求めつつ、執り成しの祈りを捧げ、恐れることなく、益々大胆にキリストの福音を語り伝えたいと願う。

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