新しい契約の仲介者なる主

10月13日説教

梁在哲牧師

 

士師記11章29~40節   ヘブライ人への手紙9章11~22節

旧約の大祭司長は、毎年、繰り返して幕屋を通して聖所に入り、自分自身とイスラエルの民の罪の贖いのためにいけにえの血を捧げねばならなかった。しかし、永遠なる大祭司長でおられるキリストは、更に大きく、完全な幕屋を通り、御自身の血によってただ、一度聖所に入って、「永遠の贖い」を成し遂げられた(ヘブライ9:11~12)。キリストは、罪と死の奴隷であったわたしたちを解放してくださるために十字架の犠牲を通してご自分の血潮を身代金として払われたからである。詩編の記者はイスラエルの民がバビロン捕囚となったのは彼らの罪の結果であるがゆえに、それらの罪を悔い改め、主なる神の贖いを待ち望んだ。(詩編130:6~8) 

アブラハムは、主なる神に召されて約束の地、カナンと言う財産を受け継いだ。しかし、子孫たちは、モ-セを通して結ばれた最初の「古い契約」を破る罪を犯してその資産を失った。しかし、キリストが彼らの罪の贖いとして十字架の上で血を流されたゆえに、聖徒らは、キリストの血による「新しい契約」を通して「永遠の財産を受け継ぐ」ことを許された。キリストは、その「新しい契約」のために御自ら、十字架の上で血を流され、その十字架の血による贖いを通して「新しい契約の仲介者」となられた(ヘブライ9:15)。そして、キリストのその血潮による「新しい契約」は、遺言となり、それは、キリストが亡くなられた後、有効になるのである(16~17節)。 

モ-セは、血を取り、契約の書事体と民全体とに振りかけて、「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である」と(出エジプト24:8)、最初の「古い契約の血」を告げた。生き物の命は、血の中にあるがゆえに、その命の血を流すことなしには、罪の赦しと贖いは、ありえないからである(ヘブライ9:19~22)。それゆえ、キリストは、最後の晩餐の際、「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と「新しい契約の血」を宣言された(マタイ26:28)。ギレアドの勇者、エフタは、アンモン人との戦いの前に主なる神に誓いを立てて、勝利をおさめた。しかし、主の御前で取り返しがつかない口を開いてしまったために、一人娘を誓い通りに焼き尽くす献げ物としてささげねばならなかった(士師記11:30~35)。

父なる神は、ご自分の約束と誓い、そしてその契約を守られるために、また、律法と言う古い契約に閉じ込められていた人々を憐れんでくださったゆえに、ひとり子イエス・キリストを十字架の犠牲に惜しまず、お与えになられた。そして、御子イエス・キリストを「新しい契約の仲介者」としてお立てになられ、地上の苦しみや悲しみ、試練の中で迷っているわたしたちをも、御子イエス・キリストにある「新しい契約」へ導いてくださった。どうか、聖霊の御助けによって御子イエス・キリストの十字架と復活を宣べ伝えつつ、「新しい契約」に生きることができるように祈り、願う。

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