キリストに捕らえられている者 10月20日説教 梁在哲牧師 エレミヤ書29章1~14節 フィリピの信徒への手紙3章12~16節 使徒パウロは、「キリストとその復活の力とを知り、苦しみを分かち合い、キリストと共に死んで死者の中からよみがえりたい」(フィリピ3:10~11)といったそれらの願いを、「既に得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもない。ただ、キリスト・イエスに捕らえられているゆえに、何とかして捕らえようと努めている」と告白した(12節)。完全な救いは、主が再び来られる時、成し遂げられるゆえに、自分は、まだ、救いの途上に立って、完全な者になろうと努めているし、自分を捕らえてくださった主イエスの御旨を成し遂げるために救いの目じるしを捕らえようと努めていると、告白した。狩猟犬が、獲物を捕らえようと全力で追いかけるように青年サウロは、以前、主イエスを信ずる者たちを捕らえようと走り回り、主イエスを迫害した。しかし、ダマスコの途上で主イエスに捕らわれ、悔い改め、救われ、使徒パウロとなり、異邦人伝道の使徒として遣わされた。 パウロは、何とかして捕らえようと努めている者は、先ず、過ぎ去ったことや後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、前に進まねばならないと勧めた(13節)。しかし、イスラエルは、エジプトの国の後ろのものに捕らわれてカナンに進むことに失敗した(出エジプト16:3)。また、パウロは、何とかして捕らえようと努めている者は、父なる神が御子イエスを通して与えられる朽ちない永遠の命であり、善い戦いをやり抜いた者に与えられる栄光なる冠である賞を目指してひたすら走らねばならないと勧めた(14節)。そして、各々の不完全さを覚え、絶えず精進し、捕らえようと努めている完全な者として自分の勧めに従う心得をもって生きるべきだと励まし、自分と異なる考えがある者があれば、全てのことを神に委ねる者こそ、完全な者の姿であると証した(15節)。 イエスを救い主として信じる信仰の本質は、同じであるが、いずれにせよ、それぞれ、成し遂げた所に基づき、前進しねばならないとパウロは、勧めた(16節)。ところが、何かを得ようとして教会の扉をたたく人々にとって、「苦難を喜びとする」のは、到底、受け入れ難いことではなかろうか。しかし、苦難と試練の中で真の信仰は、問われる。それゆえ、目に見える喜びに心を奪われ、「父なる神が御子イエスを通して与えられる賞」を自分勝手に変えようとする者を、「十字架に敵対して步んでいる者」だと、パウロは、涙ながらに厳しく戒めた(18節)。彼は、キリストに捕らえられている者として自分は、苦難と試練を喜びとすると繰り返して証した。その喜びの源は、「主が再び来られるのを待ち望む」ことにあり、主は「キリストに捕らえられている者」に如何なる苦難と試練の中にも「主の再臨の時を待ち望む力」を与え、「喜びを先取りさせてくださる」からである(20~21節)。 ダビデは、アビメレクの前で気の狂った人を装い、追放されたが、どのような時も、主なる神をたたえ、絶えることなく讃美を歌うと告白した(詩編34:18~20)。預言者エレミヤは、バビロンに降伏しなければ、エリサレムは占領され、バビロンに支配されると預言したゆえに、パウロのように何回も投獄され、水溜の泥中にまで投げ込まれた。それにも拘わらず、主なる神の裁きを警告しつつ、イスラエルを再び回復してくださる神の慰めと希望のメッセージを告げ続けた(エレミヤ29:10~14)。わたしたちは、「キリストに捕らえられている者」として父なる神が御子イエスを通して与えてくださる朽ちない永遠の命の冠を目指して聖霊の御助けによって後ろのものを忘れて前のものに全身を向けつつ、ひたすら走りたいと切に祈り、願う。 |