無償で義とされる者

11月3日説教

梁在哲牧師

 

イザヤ書44章6~17節   ローマの信徒への手紙3章21~28節
 使徒パウロは、「今や、律法とは関係なく、神の義が示され、明らかにされた」と信仰義認の礎について証した。パウロにとってすべての時間の流れは、「今」と「以前」に分けられて、「以前」は、ユダヤ人であれ、異邦人であれ、全ての人間は、その堕落のゆえに、罪に定められた。しかし、「今」やその罪人が主イエス・キリストを信じる信仰によって何の差別もなく、無償で義とされ、神の義が示されるターニングポイントとなっている(ローマ3:21~24)。ダビデは、部下ウリヤの妻バト・シェバを犯した罪を預言者ナタンから咎められ、自分の罪に対する主なる神の裁きは、どのようなものでもそれは、正しく、神の義は、誤りのない完全なことだと、告白した(詩編51:5~6)。それこそ、罪に定められた人間の「以前」の姿ではなかろうか。
 しかし、父なる神は、わたしたちの罪をお赦しになるために御子イエスを世に遣わされ、御子の十字架を通して罪を贖われた。それゆえ、「今」や、わたしたちは、神の御前で、正しい者とされ、律法とは関係なく、聖霊によって「神の義」が与えられた。父なる神は、御子イエスを立てその血によって信じる者のために罪を償う供え物となさった。それこそ、キリストの贖いであり、それは、今までのわたしたちの罪を見逃して、ご自分の義を示されるためである。(ローマ3:25)。もし、人間の犯した罪が何の裁きもなく、見逃されたら、父なる神の義は、あり得ないからである。
 「以前」、忍耐して来られた父なる神が、「今、この時」に義を示されたのは、御自らの正しさを明らかにして、イエスを信じる者を義となさるためであった(26節)。御子イエスの十字架の犠牲を通して父なる神の愛と義は、両方、明らかに示され、成し遂げられ、罪と死の絶望の淵に陥っていたわたしたちの前に義の道をも開かれた。また、パウロは、「今」や罪人がキリストを信じる信仰によってのみ、何の差別もなく、無償で義とされるゆえに、一切の人間の功や力の自慢と誇りの扉は、閉じられ、感謝だけが求められる、恵みの信仰の道が開かれると勧めた(27~28節)。
 ユダヤ民全体は、長く続けられる苦難と試練の中で、何か解決の糸口や脱出する出口も見当たらなくなり、焦りを感じたあげく、主なる神に背きはじめ、偶像崇拝に目をむくようになった。そこで預言者イザヤは、人間の誇りや自慢が偶像崇拝につながる危うさを厳しく戒め、偶像崇拝から遠ざけるように語り続けた(イザヤ44:6)。何故ならば、偶像を造る課程には、人間の力や知識、また技術など繊細な作業が求められるゆえに、それらのすべてが自慢され、崇められる中でいつの間にか神となってゆくからであった(44:12)。
 今朝、わたしたちは、父なる神が御子イエス・キリストの十字架を通して開いてくださった義の道を歩まれつつ、先に天に召された信仰の先達を覚え、召天者記念礼拝の恵みにあずかっている。父なる神は、御子イエス・キリストの十字架を通して示されたご自分の義を、罪と死の絶望の淵に陥っていたわたしたちにも聖霊によって何の差別もなく、無償で与えてくださった。それゆえ、わたしたちは、何一つ、誇ることなく、自慢せずに、その恵みの賜物に感謝しつつ、御子イエス・キリストを通して開かれた父なる神への義の道を歩み続けることができるように祈り、願う。

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