選ばれなかった道を進む者

11月10日説教

梁在哲牧師

 

創世記13章1~18節    ガラテヤの信徒への手紙3章1~14節
パウロがガラテヤを離れた後、ユダヤ人たちは、ガラテヤ教会の人々を惑わし、パウロの使徒としての資格を否めて、十字架の贖いをも拒み、福音の本質を歪めた。そこでパウロは、重大な危機に直面したガラテヤ教会のために、急いで手紙を書いた。先ず、パウロは、「福音と律法」を分別できず、物分かりの悪い彼らの愚かさを責めて、彼らが聖霊を受けたのは、律法の行いではなく、福音を聞いて信じたからだと戒めた。そして、自分が福音を伝えた際、受けた迫害を彼らが目の当たりにし、その苦難に共にあずかったのに、ユダヤ人たちに従うなら、その苦しみの体験は、無駄であるし、愚かなことだと厳しく諭した。また、父なる神が彼らに聖霊を授けられ、奇跡を行われたのは、律法の行いではなく、福音を聞いて信じたからではなかろうかと問いかけた(ガラテヤ3:1~5)。
更にパウロは、正しい信仰の決定的な証拠としてアブラハムの前例を挙げ、信仰によって義とされる道を確かめた(6~7節)。アブラハムの信仰こそ、権威をもってガラテヤ教会の人々を悟らせ、自分が律法を破壊していると主張するユダヤ人たちの企てをも打ち破られるからであった。それゆえ、主なる神がアブラハムに、「あなたのゆえに異邦人は皆、祝福される」と予告した約束の言葉こそ、異邦人に福音となると同時に、アブラハム自身にも福音となり、それで、信仰によって生きる人々は,アブラハムと共に祝福されると証した(8~9節)。正に福音は、キリストの福音の前にアブラハムに先に伝えられ、律法より先にあった。詩編の記者は、イスラエルの歴史を導かれ、アブラハムからヤコブに至るまで千代に及ぼす主なる神の契約を覚え、褒め称えた(詩編105:8)。
一方、信仰によって主なる神の御前に義とされたアブラハムの生涯の道程は、出会いと別れを繰り返す旅であった。アブラハムは、難を逃れエジプトの国へ移住し、更にそこを離れ、カナン地方でも旅を続けた(創世記13:1)。しかし、甥ロトとの間で様々な問題が生じて、アブラハムは、ロトとの別れを決意し、「あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう」と、すべての選択をロトに委ねた(6~9節)。その選択は、何か信念もなく、相手に振り回されたからではなく、すべてのことを主なる神に信頼を寄せ、委ねたものであった。主なる神のアブラハムへの祝福は、律法によるものではなく、ただ、信仰によるものであるがゆえに、主イエス・キリストを信じる者は、異邦人であれ、ユダヤ人であれ、皆、アブラハムの祝福に共にあずかるようになる。
それゆえ、パウロは、主イエス・キリストを信じる福音こそ、主なる神のアブラハムへの祝福が成就されたものであると明らかにし、主イエス・キリストの十字架の贖いの死は、異邦人に祝福を与え、また、主イエス・キリストを信じる者には、聖霊を与えてくださると証した(ガラテヤ3:13~14節)。アブラハムは、選ばれなかった道を進み、主なる神は、アブラハムに伴われ、共におられた。御子イエス・キリストは、ゲッセマネで、「父よ、できることならこの杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願い通りではなく、御心のままに。」と祈られ、ご自分で選ばれなかった十字架の道を進まれた(マタイ26:39)。わたしたちは、自分で選んだのではない道を進まねばならない時こそ、共におられる父なる神が御子イエス・キリストを通して開いてくださった義の道を歩み続けたいと祈り、願う。

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