預言者として招かれた者

11月17日説教

梁在哲牧師

 

申命記18章15~22節       使徒言行録3章11~26節
ペトロは、足の不自由な男を癒した出来事が切っ掛けで行われた2回目の説教のゆえに、ユダヤ主義者たちの反発を買うようになり、迫害を受けた(使徒3:11)。しかし、ペトロは、その癒しの奇跡は、決して自分の力によるものではなく、十字架で亡くなられ、復活された主イエス・キリストの名によるものであると、明らかにした(3:12~16)。それゆえ、ペトロは、そこに集まっていた群衆に、「だから、自分の罪が消し去られるように悔い改めて立ち帰りなさい」と勧めた(3:19)。そして、「イエス・キリストは、モーセが預言した預言者でおられるゆえに、この預言者に耳を傾けない者は、皆、民の中から滅ぼし、絶やされ、キリストを信じない者は、必ず滅ぼされる」と厳しく戒めた(3:22~23)。
モーセが来るべきメシアは、預言者として来られると、預言したからである(申命記18:15~19)。120歳となったモーセは、約束の地カナンを目の前にして、昔の出エジプトの出来事を体験した世代は、既にいなくなり、葦の海の奇跡やシナイ山で律法を授けられたことなどを全く知らない若い世代に向けて、主なる神に信頼をよせ、従順に従って豊かな祝福の実を結ぶようにこの申命記を書き記した。詩編の記者も、モーセを通して奴隷であったご自分の民をエジプトの国から救い出してくださった主なる神の「贖い」を褒め称えた(詩編77:16)。御子イエス・キリストもご自分を身代金として払われ、罪と死の奴隷であった私たちを贖ってくださった。
ところが、ユダヤ人たちは、来るべきメシア、救い主を預言した「預言者の子孫」でありながら、預言されたメシアを信じなかった。また、神からメシアを通して祝福を受けるように契約を結んだ「契約の子」にも拘わらず、その契約の内容を信じなかった。父なる神は、彼らが悪の道から離れるよう御子イエスをお遣わしになったが、彼らは、その不信仰のゆえに、御旨に逆らう道を選んだ(使徒3:25~26)。預言者は、神によって人間の中から召されてその務めを果たし(申命記18:18~19)、称賛と賛同を受けると同時に、非難を浴び、反感を買う時もある。しかし、預言者は、人々に耳障りがいい、言葉だけを届けることなく、また、時勢に流されることなく、自分に託された神の言葉に専念して生きる道を歩み続けねばならない。
預言者は、託された神の言葉を語りつつ、モ-セのように実際、行動を起こして働かねばならない。その意味においてキリスト者は、「預言者の道を歩むように招かれた者」ではなかろうか。しかし、その道は人より目立つようなまた、見栄えの良い存在になろうとすることではない。神代真砂実先生は、「苦難の謎への究極の答え」と言う説教の中で「十字架の時に全地を覆った闇の暗さを受け止めてこそ、苦難と闇を乗り越える命と光がある、つまり、復活の出来事が続くと言う喜びを私たちは受け止められるようになる」と解き明かした。わたしたちは、父なる神が御子イエスを通して「預言者として招かれた者」として苦難の中でもキリストの十字架の苦しみと死、そして復活に依り頼って地上の信仰の歩みを前に進みたいと祈り、願う。

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