救いの源である愛の奉仕 11月24日説教 梁在哲牧師 ミカ書2章12~13節 マタイによる福音書25章31~46節 マタイによる福音書は、「審判の福音」と呼ばれるほど、審判についての例え話しが、数多く記されている。殊に、主イエスは、「厳粛な最後の審判」と信仰に基づいて快く志願して捧げられる「愛の奉仕」を結び付く例え話を言われた。当時のユダヤ人社会において訪ねて来た旅人に宿を貸して、食べさせ、飲ませ、もてなすことは、当然の義務であった。しかし、「裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれる」のは、誰から頼まれてやることではなく、わざわざ探し出し、訪ねて助け上げる自発的な愛の奉仕である(マタイ25:35~36)。それは、信仰から離れた単純な奉仕ではなく、信仰に基づいて捧げられるゆえに、その「愛の奉仕」こそ、「救いの源」である。ヤコブの手紙の記者も、信仰に基づいた行いによってその信仰は、完成されると証した(ヤコブ2:21~22)。 預言者ミカは、北イスラエルと南ユダ王国は、両方共に主なる神の道から離れた罪のゆえに、厳しい神の審判がくだれると預言した。その一方、ミカは、メシア王国への回復は、主なる神がイスラエルの残りの者たちに恵みをお与えになることから始まり、主なる神は、その回復のために「イスラエルの残りの者を呼び寄せる」と預言した(ミカ2:12~13:)。ミカは、ついに、ダビデの子孫、メシアによって永遠なるメシア王国が再び建てられ、「避けがたい滅びの日」が主なる神の「救いの業が成就される日」でもあると預言した。主なる神がイスラエルの回復のために「イスラエルの残りの者を呼び寄せる」とミカは預言したが、詩編の記者は、ご自分の民を裁くために呼び集められる主なる神を褒め称えた(詩編50:1~6)。 「国の滅びの日」は、その苦難から「立ち上がらせる回復の日」となり、「御救いの業が成就される日」となると、ミカが預言した通りに、父なる神は、御子イエス・キリストの裁きの十字架を通してご自分の御救いの業を成し遂げられた。父なる神に背き、敵対していた私たちは、御子イエス・キリストの裁きの十字架を通して父なる神と和解させていただき、回復されたからである。しかし、避け難いその日、誰もが、「お前たちは、私が飢えていた時、のどが渇いていた時、旅をしていたあの時、その時、どこで何をしていたのか」と、また、「お前たちは、私が裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれたのか」と問われる。どうが、聖霊の御助けによってその裁きの先にある父なる神の御手による回復に忍耐をもって信頼を寄せ続けることができるように、そして信仰に基づき、喜んで快く、志願して教会の頭なる御子イエス・キリストに仕えることができるように切に祈り、願う。 |