誰も知らないその日、その時

12月1日説教

梁在哲牧師

 

イザヤ書2章1~5節     マタイによる福音書24章36~44節

ダビデは、ペリシテ人に奪われた神の箱を再びエルサレムに迎え入れる、「神の箱の帰還」の喜びと栄光を褒め称えた。それゆえ、詩編24篇は、「キリストの再臨」の影として見做され、アドベントの時、招詞や交読文として朗読される(詩編24:7~10)。再び来られるキリストは、栄光の王としてエルサレムに入城され、褒め称えられるからである。預言者イザヤの時代にエジプトとアッシリアとの対立と緊張のために人々は皆、疲れ、苦しんでいた。イザヤは、そのような人々に、エルサレムが清められ、ダビデの末裔から出て来る救い主が与える平和を告げた(イザヤ2:4)。苦しい時代にこそ、人々は、主なる神に背き、自分勝手な道を歩んでしまうが、イザヤは、むしろ、「主の光の中を步もう」と勧め、希望を示した(2:5)。ところが、示された希望を待ち望むことは、非常に難しいものであるがゆえに、人々は、いつ終りの日が来るのか、その徴は、一体どういうものになるのか、問い続けた。

主イエスに従っていた弟子たちも同じであって、彼らは、主イエスに、「そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか」とひそかに言った(マタイ24:3)。そこで主イエスは、ノアの洪水の出来事を挙げて、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」と言われた(24:36)。主は、終りの日は、いきなり訪れると、人間が知るべきことと、知るべきではないことを明らかにされた。ノアの洪水は、最後の審判のひながたであると言われる。不信仰の人々は、ノアの警告を無視し、世の楽しみ耽っていたが、突然の洪水のために皆、滅ぼされたように最後の審判の時も知らない内にいきなり襲って来るからである。それゆえ、主ご自身、再び来られるその日にも人々は、自分たちへの審判に気づかず、日常生活の営みの中で一方は、救われ、もう一方は、滅ぼされると言われた(24:38~41)。

主ご自身、再び来られる「その日、その時は、だれも知らない。人の子は、思いがけない時に来る」と言われたのは、わたしたちが常に備える心構えで、「目を覚まして」ご自分を待ち望むように願っておられたからである(24:42~44)。わたしたちは、苦しみのトンネルの出口が見えて来て、その終わりの時が分かっていれば、我慢して耐え忍ぶことが何とか出来ると思われる。しかし、その苦しみの終わりか全く分からないと、すぐ落ち込んで絶望してしまう存在ではなかろうか。聖書の人物もまた、わたしたちもその終りの見えない苦しみに心が折れそうになる時が訪れる。しかし救い主イエス・キリストを通して真っ暗闇の中でも夜明けが近づいたと、伝えてくれる救いの御言葉のゆえに、我々は、主が再び来られ、真の平和が与えられるその日を待ち望むことができるのではなかろうか。

父なる神は、御子イエス・キリストの十字架の血潮を身代金として払われ、罪と死の奴隷となっていたわたしたちを解き放ち、ご自分につなぎとめてくださった。それゆえ、「実に全ての人々に救いをもたらす神の恵みが現われました」(テトス2:11)。そして、聖霊を通してご自分の恵みをわたしたちが信仰によって受け入れられるようにしてくださった。わたしたちは、実に全ての人々に救いをもたらす父なる神の恵みが全ての人々に届けられるように願う。そして、救い主、御子イエス・キリストのご誕生の栄光を褒め称えつつ、御子主イエス・キリストが再び来られるその日、その時を待ち望む希望に生きるアドベントになれるように祈る。

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