故郷で受け入れられない主

12月8日説教

梁在哲牧師

 

イザヤ書59章12~20節  マタイによる福音書13章53~58節

主イエスは、いくつか天国の例え話を語り終え、そこを去り、故郷ナザレをお訪ねになった(マタイ13:53)。ベツレヘムでお生まれになった主は、ナザレで育てられたゆえに、故郷ナザレと呼ばれた。それは、主の公の生涯において初めて故郷ナザレへの訪問であった。そこで主は、いつもの通り、ユダヤ人の会堂で教えられた。しかし、初めてイエスの教えや知恵と奇跡を見聞きした故郷の人々は、皆驚いた(54節)。彼らの驚きの根底には、大工の息子、母マリヤと兄弟姉妹たちのようなイエスの続柄にあった(55~56節)。彼らは以前この地で育てられたイエスのことしか知らなかったゆえに、イエスがなさった教えと奇跡の出来事こそ、「イエスは、神の子、メシアでおられる」証しであることを知ろうともせず、知らなかったからである(ヨハネ20:31)。そのように故郷の人々は、イエスにつまずいてイエスのことを排斥したゆえに、主は、「預言者が敬われないのは、その故鄕、家族の間だけである」と言われ、そこではあまり奇跡をなさらなかった(57~58節)。信仰から離れた奇跡は、何の意味もなかったからである。

バビロンの捕囚から解放され、エルサレムに帰って来たイスラエルの人々が、自分たちが想像していた姿とは、随分違ったエルサレムの現実の前に失望と落胆を隠させなかった。そこで預言者イザヤは、彼らに主なる神の救いと希望の言葉を告げつつ、先ず、主なる神に背き、遠く離れ去っていた罪を告白し始めた(イザヤ59:12~14)。そして、主なる神に背き、離れ去った罪深いイスラエルの民に、そして島々や日が昇る東から日が沈む西にいたるまで全ての者にも現れる主なる神の救いを示し、救い主は、贖い主として、罪を悔い改める者のもとに、来られると告げた(18~20節)。  詩編の記者は、主なる神がメシアとして真実をもって諸国の民を治め、正しく裁かれるために来られ、メシア王国をお建てになるゆえに、天地と海、畑や森の木々が、こぞって喜び祝い、踊れ、喜び勇め、歌えと、救い主を褒め称えた(詩編96:11~13)。

しかし、詩編の記者が褒め称えたようにナザレのイエスは、救い主、メシアとしてこの世に遣わされたが、故郷では、受け入れられなかった。イザヤの時代から主なる神に背き、遠く離れ去った人々の罪と不信仰、その弱さは、主イエスの故郷ナザレの人々に明らかにされ、今日の我々にも、その弱さがあるのではなかろうか。それゆえ、このアドベントの時、わたしたちにその不信仰と弱さのゆえに悔い改めの祈りが求められているのである。父なる神は、御子イエス・キリストを世にお遣わしになり、御子イエスの十字架の死による贖いを通して罪と死の奴隷であったわたしたちを解放し、救ってくださった。それゆえに、「すべての人々に救いをもたらす父なる神の恵み」が明らかにされ、わたしたちに聖霊を通してその恵みを受け入れる信仰が与えられた。わたしたちは、父なる神のその恵みを覚え、悔い改めの祈りをささげつつ、救い主御子イエス・キリストのご誕生の栄光の現われを待ち望む、クリスマスを迎えたいと祈り、願う。

前回 目次へ 次回