キリストの義に仕える者 1月12日説教 梁在哲牧師 サムエル記上16章1~13節 ローマの信徒への手紙6章12~23節 主イエスは、公の宣教のお働きの前に洗礼者ヨハネの元を訪ねて洗礼を受けられた。洗礼は、ユダヤ人にとって、歴史と主なる神の導きを思い起し、受け継いでいくものである。その歴史は、「ノアの洪水」と「出エジプト」の出来事まで遡り、前者は、水によって「全ての悪が洗い流され」、後者は、モーセが海を割り、海をくぐって、救われたイスラエルの民は、奴隷の国エジプトから解放されて、エジプトの兵士たちは、海に呑み込まれ、「悪と罪が水によって流されていく」ものであった。その意味において主イエスもイスラエルの歴史に連なる者として洗礼者ヨハネより洗礼を受けられた。キリスト者も聖霊の御助けによってキリストを信じる信仰を告白し、父・子・聖霊の三位一体の神の御名によって洗礼を受けて悪と罪が流されてゆき、罪と死の奴隷から解き放たれ、救われるようになる。 なお、主イエスの洗礼は、油を注がれたダビデの出来事を思い起させる。旧約では、主なる神は、王と預言者、また祭司長に油を注がれ、聖なる者として聖別された。彼らは、主なる神と人間との間で執り成しをする、仲介者として来るべきメシアの影であった。預言者は、主なる神の代理人として神の御言葉を告げ、祭司長は、人間の罪を赦していただくために主なる神に生贄を捧げ、王は預言者と祭司長に助けられながら、主なる神の御旨に従って国を治めた。主なる神は、最初に油注がれた者、サウル王を退けて、ダビデに油を注ぐようにサムエルに命じられた(サムエル記上16:1・12~13)。それゆえ、ダビデは、油注がれた者として自分は、来るべきメシアの影に過ぎないと告白し、メシアに逆らう者たちに向かって、世界に君臨され、統治されるメシアを畏れ敬うように勧めた(詩編2:10~11)。 使徒パウロは、古い自分が、キリストと共に十字架につけられたのは,罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであり、それゆえ、キリストの復活によってキリストに結ばれて、神に対して生きていると、証した(ローマ6:6・11)。その意味においてキリストと共に死に、また、共に生きることこそ、キリスト者の洗礼に他ならない。キリストは、ご自分を身代金として払われ、罪と死の奴隷であった我々を解放して、「キリストの義に仕える」新しい身分をも与えてくださったと、パウロは、証した(ローマ6:16~18)。ところが、罪の奴隷であった者に対して主人、「罪が支払う報酬は、死である」がゆえに、我々は、「罪の奴隷」から確かな「神の奴隷」の身分として神に仕えねばならない。 何故なら、罪の奴隷から解放されても弱くて不安定な我々は、以前の状態に戻り勝ちの存在だからである。しかし、父なる神のお働きは、ご自分に仕え、ご自分の忠実な僕になる者を通して、「聖霊の実」として示され、その「行き着くところは、永遠の命」であり、父なる神の賜物は、御子イエス・キリストによって与えられる大きな贈り物、即ち、「永遠の命」であると、パウロは証した(ローマ6:19~23)。御子イエス・キリストは、ご自分の十字架の血潮を身代金として払われ、罪と死の奴隷であったわたしたちを解き放って、「キリストの義に仕える者」という新しい身分をも与えてくださった。新しい年を迎え、わたしたちは、父なる神が「キリストの義に仕える者」を通して示される豊かな「聖霊の実」を結びつつ、御子イエス・キリストを通して与えられる大きな賜物、「永遠の命」にあずからせていただきたいと祈り、願う。 |