新しい神殿 2月2日説教 梁在哲牧師 創世記28章10~22節 マタイによる福音書21章12~16節 主イエスは、公の生涯の3年目になる年に、最後の過越祭を守るために都エルサレムに入城された。それは、救い主、メシアの「勝利の入城」であった。ところが、その翌日、主イエスは、神殿の中で行われている商売をご覧になって、「売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒され、『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである』ところが、あなたたちは、それを強盗の巣にしている」と言われた(マタイ21:12~13)。それは、神殿を清められた主の「宮清め」の出来事であった。その一方、イエスの激しい怒りは、周りの人々にとって珍しい光景に見えたかも知れない。何故なら、神殿の中での商売は、ローマ帝国の法律に則った合法的な行いであったからである。しかし、イエスが、それほど激しく怒りを露わにされたのは、目に見える神殿という場所が軽んじられ、延いては、父なる神をも軽んじられていたからではなかろうか。 聖書において神殿は、「神の家」また、主イエスに言われたように「祈りの家」」と呼ばれて来た。詩編84篇は、「神殿巡礼者の歌」と呼ばれ、詩編の記者は、「祈りの家」である神殿でヤコブの神、イスラエルの神の御前に自分の祈りが答えられるように願いつつ、自分は、主に逆らう者の天幕で長らえるよりは、「神の家」の門口に立っているのを選び、歌った(詩編84:9~11)。ところが、「神の家」という言葉がはじめて現れているのは、創世記28章「ヤコブの夢」の箇所で、兄エサウの長子の権利をだまし取ったヤコブは、母レベカの兄ラバンが住むハランの地に逃げる途中、夢に主なる神が現われ、その場所を「まことに主がおられ、畏れ多いベテル(神の家)と名付けた(創世記28:16~19)。その後、主イエスは、目の見えない人や足の不自由な人たちをいやしてくださった。神の家には、父なる神の御力が現われる場所であることを示されるためであった(マタイ21:14)。 他方、主イエスがなさったその不思議な業を見て、境內で子供たちまで叫んで「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いた祭司長たちや律法学者たちは、腹を立てた(マタイ21:15)。目に見える物にしか心を向けない大人たちとは異なって、目に見えないものに心を向けていた子どもたちの讃美は、大人たちの心に怒りをもたらした。御子イエスは、ご自分の十字架の犠牲を代価として払って罪と死の奴隷となっていたわたしたちを買い取られ、解き放ってくださり、父なる神は、御子イエスを通して聖霊が宿ってくださる「新しい神殿」をお建てになられた。それゆえ、使徒パウロは、「あなた方の体は、父なる神からいただいた聖霊が住んでいる神の神殿なのである」と証した(コリントⅠ3:16~17)。わたしたちは、もはや自分自身のものではない「新しい神殿」として神の栄光を現わすことができるように祈り、願う。 |