たとえで語るキリスト

2月9日説教

梁在哲牧師

 

イザヤ書6章1~12節   マタイによる福音書13章10~17節

たとえ話しの語源は、物をそばに並べて置く意味を持つ、ギリシャ語「パラボレ」に由来するが、旧約聖書においてたとえ話しは、物語りとして語られ、新約で主イエスは、30ヶ所を超えるたとえ話しを語られた。イエスは、七つの天の国のたとえ話しを語られた後、自分は、何故たとえで語るのかについて弟子たちに言われた。先ず、イエスは、弟子たちが秘められた「天の国の真理」をもっと深く知るようにたとえで語ると、言われた(マタイ13:10~12)。その一方、あの頑なな心の不信仰の者たちには、秘められた「天の国の真理」を見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないようにたとえで語り、彼らによってイザヤの預言は、実現したと言われた(13~15節)。主なる神は、自分の罪を告白した預言者イザヤを赦され、新しい使命をお与えになった(イザヤ6:9)。

十分な機会が与えられたにも拘わらず、イスラエルの民は、聞いても悟らず、御手も知らずに悔い改めなかった。彼らは、イザヤの預言にも悟らず、反応を示さず、益々頑なな心になった(6:10)。彼らは、頑なな心のゆえに、バビロン捕囚となって数々の苦難を受けたが、頑なな心は、変わることなく、救い主メシアとして来られた主イエスの言われることをも全く聞かなかった。そこで、イエスは、世の不信仰者たちの頑なな心とは違って、救い主を目の当たりし、ご自分のお言葉を直接聞き、それらすべてのことを悟る心を持つ弟子たちを祝福してくださり、預言者たちは、来るべき救い主を待ち望んでいたが、見ることができず、今、弟子たちが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったと、言われた。(マタイ13:16~17)。

詩編の記者も、主なる神に頑なな心とは違った「心を尽くす一筋の心」が与えられるように願った(詩編86:11)。詩編の記者は、先ず、主なる神の教えを願った。ヨハネの手紙の記者も、真実で偽りのなく、万事について教えてくださる「聖霊の教え」を願った(ヨハネⅠ2:27)。肉の欲望や弱さのために、霊的な目が暗くなって主なる神の道を悟ることが出来ないからである。次に、「主なる神のまことの中」を歩み、「主なる神の真理」を行うことを誓い、「主なる神の御名」を畏れ敬うことができるように一筋の心をお与えくださいと主なる神の御導きを願った。父なる神が、肉の弱さのゆえに、霊的な目が暗くなって御子イエス・キリストの道を悟ることが出来ないわたしたちに聖霊の御導きと教えを与えてくださるように。そして導かれ、教えられた通り、御子イエス・キリスト内にとどまることができるように切に祈り、願う。

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