教えるキリスト

2月16日説教

梁在哲牧師

 

イザヤ書30章18~21節  マタイによる福音書5章17~20節

律法は、そもそもエジプトから解放され、新たに歩み出したイスラエルの民たちにモーセを通して主なる神より与えられた。主なる神は、不信仰のゆえに戸惑い迷う民に平安と希望をお与えになるため律法をお授けになった。律法それ自体、主なる神の愛が込められたゆえに、イスラエルの民は、「律法と預言者」を主なる神からの教えとして大切にして来た。律法は、モーセ五書とも呼ばれ、新約が完成されるまで「律法と預言者」は、旧約の別名として呼ばれて来た。詩編119篇は、「律法の黙想」と呼ばれるが、詩編の記者は、「主よ、あなたをたたえます。あなたの掟を敎えてください」と、願った(詩編119:12)。主なる神ご自身、律法を教えてくださる時のみ、その意味を悟ることができるゆえに、詩編の記者は、律法に依り頼りつつ、主なる神を褒め称えた。主イエスの教えは、「主なる神を愛し、自分を愛するように隣人を愛すること」であるがゆえに、律法も主イエスの教えも正に愛に包まれているものではなかろうか。

ところが、律法学者やファリサイ派の人々は、律法を自分たちの都合の良いものとして解釈し、勝手に自分たちの権威を振りかざした。彼らは、主イエスが安息日に病人を癒してくださったゆえに、主の教えを「律法や預言者」を廃止しようとするもののように歪めて人々を煽った。そこで主は、「私が来たのは、律法や預言者を廃止するためではなく、完成するためであった」と言われた(マタイ5:17~18)。主は、ご自分の十字架の犠牲と復活を通して「律法や預言者」を完成するためにこの世に来られたゆえに、人々を教える立場にある弟子たちに、律法学者やファリサイ派の人々ようにならないように厳しく言われた(19節)。律法学者やファリサイ派の人々は、厳しく律法を教えながら、自分勝手に律法を解釈して自分たちが犯した罪を隠したあげくの果て、律法は、形だけが残されたからである。また、主は、弟子たちに「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と言われた(20節)。

律法学者やファリサイ派の人々は、律法を厳しく守って来たが、それら律法を全部守り切れなかった。律法は罪に気づくようにしてくれるだけで、律法によって神の御前で義とされる者は、誰一人もないゆえに、彼らの義は、「律法の義」であった。使徒パウロも、「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされなくて律法によっては、罪の自覚しか生じない。主イエスを信じる信仰によってのみ、信徒の義は、得られる」と証した(ローマ3:20・28)。主が命じられた「あなたがたの義」は、正にキリスト者が行うべき義であり、それは、神の御旨に喜ばれ、適うような道であった。預言者イザヤは、主なる神は、迷っている民の背後から「これが行くべき 道だ、ここを步け、右に行け、左に行け」と命じられると、預言したが(イザヤ30:21)、律法学者やファリサイ派の人々は、そのような道から遠く離れ、遠ざかっていた。今も、善い羊飼いでおられる御子イエス・キリストは、右に、左に迷っている羊の群れのようなわたしたちの背後から「これが行くべき道だ、ここを步け、右に行け、左に行け」と命じておられる。わたしたちは、御子イエスを通して一筋に開かれた父なる神への道を聖霊の御助けを求めつつ、歩み続けたいと祈り、願う。

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